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肥後街道~肥後国熊本と豊後国鶴崎を結ぶ歴史深き、魅力の街道~

加藤清正が天正16年(1588年)に初めて肥後国に入国した際に通った道とされ、後に清正によって拡張され肥後国と豊後国との間の主要な街道となった。江戸時代には、豊後国のうち街道沿いの久住(くじゅう)、野津原(のつはる)、鶴崎(つるさき)が熊本藩の飛び地となり、熊本藩の参勤交代は、肥後街道を通って陸路で九州を横断した後、鶴崎の港から海路で瀬戸内海を通って大坂に至り、東海道を江戸に向かっていた。これは、当時、大坂、江戸への最短経路であった。熊本から鶴崎までは4泊5日を要し、大津(おおづ)、内牧(うちのまき)、久住、野津原の4つの宿場が整備された。後に、これらの間の坂梨(さかなし)、今市(いまいち)等にも宿場が設けられた。この街道のうち、熊本市から菊池郡大津町に至る部分は大津街道、大津町から阿蘇郡阿蘇町二重峠に至る部分は清正公道(せいしょこどう)とも呼ばれる。また、熊本側から見ると豊後国に向かう街道であることから、豊後街道(ぶんごかいどう)と呼ばれる。さらに、豊後往還、肥後住還と呼ばれることもある。経路は、現在の国道57号、熊本県道337号熊本菊陽線、熊本県道339号北外輪山大津線、熊本県道110号阿蘇一の宮線、国道442号等にほぼ沿っており、所々に石畳や杉並木などが残されている。     

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街道沿い観光スポット

①丸山八幡神社

 城原神社の分神を祀っており、肥後藩主の参勤交代の安全を祈願したもので、今市地区の鎮守でもあります。楼門は享保5年(1720)作で、松田庄右衛門尉長次の寄進。日光東照宮のひぐらしの門を模して作られたと伝えられ、十二支の動物や二十四孝の人物像などが刻まれています。

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 ②今市の石畳

 今市は古くからの物資の集散地でした。文禄3年(1594)中川秀成が岡藩7万石の領主として入部し、岡藩領となり野津原村以西を参勤交代の道路の一部として利用するようになりました。 今市が宿場として整備されたのは慶長年間(1596-1615)のことで、庄屋伝兵衛の祖先が藩命により開発したと伝えられています。町並みは5町6間の1街道で、街道は石畳になっていました。町並みの中央部を2回、鈎の手に曲げて宿場を見通せないようにし、この曲がり角に火防藪床という竹藪を設けていました。この竹藪より西方を上町、東方を下町と呼びました。岡藩の御茶屋は当初下町にありましたが、元禄8年(1695)上町に移されて「西の御茶屋」と呼ばれるようになりましたが、延享元年(1744)に廃止されました。 肥後藩の御茶屋は下町北川の城山にあり「東の御茶屋」と呼んでいましたが、寛永10年(1633)下町に移りました。上町には大制札場や御客屋敷があり、枝郷の平連石には小制札場も置かれていました。宿場の東西には上構、下構と呼ぶ門があり警護にあたっていました。 現在は幅8.5メートルの道路中央部分2.1メートル、長さ660メートルが石畳になっておりかつての様子を忍ばせます。

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 湛水の石畳

県道412号と690号の合流点から北西に約100m。野津原三渠碑のそばで、現在は舗装されてはいるが、その下には石畳が残っている。

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 ④野津原三渠碑

  野津原農業の恩人工藤三助の功績を称えて建立された碑。工藤三助は寛文元年(1661)、肥後藩谷村手永惣庄屋谷村理衛門の孫として生まれ、元禄11年(1698)から享保9年(1724)にかけて大龍井路(おおたついろ)、かぎ(金偏に侖)小野井路(かぎおのいろ)、堤子井路(ひさごいろ)の3井路を掘削し、それまで荒蕪地だった山間部に水田を切り開き、今でも豊かな実りをもたらしています。地元の人々は、親しみと感謝を込めて「三助さん」と呼んでいます。この三渠碑は当初別の場所にあり、勝海舟も見たと言われます。

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⑤ほれ地蔵

道祖神でもあり、石の粉を掛けると恋が成就するという言い伝えがある。近くの人々が掃除やお供えを欠かさない。

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⑥町上の石田畳

国道442号と県道412号の分岐から大分寄り約500m地点から東側へ登っていく。現在は舗装されてはいるが、その下には石畳が残っている。すぐにコンクリートのはげた部分があり、石畳が確認できる。

 

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 ⑦矢貫の石畳

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 ▲矢貫の石畳(一枚岩でできている)            

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 ▲矢貫入り口

  

⑧伊塚の石畳

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 ▲伊塚の石畳への入り口

 

⑨夜泣き止め地蔵

伊塚の石橋から丘を登ること約100mほど。この道を下れば赤坂の石畳にいたり、国道442号へ合流する。

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 ⑩赤坂の石畳

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 ⑪一ノ瀬

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 ⑫野津原宿

 肥後藩主加藤清正が、防衛のため東西と北を七瀬川がコの字状に囲んだ守りやすい場所に宿場を設けたのが野津原宿の始まりです。北東から南西に至る一本筋町で、道幅は3間(5.4メートル)あまり。本町(古町)から西は寺町をとおり新町から七瀬の渡しに出ます。東は恵良村に続いていました。この本町は慶長6年(1601)から寛永9年(1632)に掛けて、加藤氏によって町割りされた物と思われ、新町は細川氏時代の慶安2年(1649)の町割りです。本町と寺町の街道両脇には防火用水と生活用水を兼ねた幅3尺(約90センチ)の水路がつけられていました。

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 ⑬野津原神社

 神社の門は「陣屋門」と呼ばれ、ケヤキ造りで、かつての御陣屋の裏門であった。

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 ▲野津原神社

 

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 ▲陣屋門

 

 ⑭法護寺

 境内の清正公堂には清正公像がある。

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 ⑮往還田

 恵良地区にあり、人の通りの幹線道が細長い水田として残っている。向こうに見えるのが七瀬川の二ノ瀬に掛かる国道442号の広瀬橋です。

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 ⑯道中安全塔

 参勤交代の安全を祈願したもの

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 ⑰二ノ瀬

七ノ瀬の二ノ瀬。

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⑱三ノ瀬

七ノ瀬の三ノ瀬。

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⑲四ノ瀬

七ノ瀬の四ノ瀬。

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⑳五ノ瀬

七ノ瀬の五ノ瀬。

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㉑六ノ瀬

七ノ瀬の六ノ瀬。

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㉒七ノ瀬

七ノ瀬の七ノ瀬。

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2024.04.27 Saturday
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