第 Ⅴ部 意識を開く

7 宗教がゆがめた神のイメージ

 

もともと人間と神の間にギップはありません。

 

しかし宗教は自らを権威付ける必要から、「神」を利用し、御大層な存在に祭り上げました。ある時から、人間から非常に遠い存在として恐れられたのです。

 

神話では、神界と人間界の断絶として語られています。

 

次のよな疑問は、すべて宗教の産み出した誤った「神」のイメージに由来するものですが、ここで判りやすく指針を示しておきましょ

 

Q 唯一絶対の神はいるのですか?

 

 

A 大いなる宇宙意識のことを便宜上「神」と呼んでいるにすぎません。問題は、その唯一絶対の「神」を、自分とは遠くかけ離れた存在として権威づけている点にあります。

 

Q 神話に登場する個性豊かなさまざまな神々はいますか?

 

A むしろこの考え方の方が実情に近いでしよう。役割に応じてさまざまな企業が活動しているように、神という意識のグループにも幾つかの系統カラ —がある、ということです。

 

Q どんな人間の中にも神が宿っている、とはどういうことですか?

 

A 「人間 社員、神 社長」というカーストやピラミッド構造は、元々ありません。

 

肉体 人間、という発想を捨てて、純粋に意識の側面だけでとらえてみて下さい。

 

 

意識の面から見た「私」の範囲とは、今見えている範囲ここからここまで、と信じている範囲 です。

 

想念観察を真剣に実践すると、その範囲は「神」という企業全体に広がります。

 

ですから、ふだん感じている世界・・・肉体と結び付いた表面的な世界、非常に限定された先端社員としての「私」も、会社全体を広く見渡せる社長としての「私」も、理論上同時に存在します。

 

 

つまり、「人間は同時に神でもある」ということです。

 

Q 神を恐れ敬わないと、神は人間に恩恵や罰を与えるのですか?

  神は願い事を聞いてくれるのでしょうか?

 

A 先端レベルの社員が成長を続けるということは、企業としての神もまた成長しているということです。

 

このよに見た場合、神とは御利益や懲罰 試練を与える存在、お供えを喜んだり、祈りを聞き届けたりする存在ではないことが判るでしう。

 

神という集合レベルの意識が、特定の個人のエゴ的都合にいちいち反応するわけがありません。

 

 

神という会社は、大きな方針のもと動いているわけですから、それに添って活動しているうちは、社員の願い事は叶うことになります。

 

脱線した場合は、しばらく左遷される 停滞する ことになります。

 

但し、先端の社員の活動が会社全体 の発展に役に立つ、と見なされた場合、一見エゴ的な要求であっても叶うことがあるでしう。

 

 

 

Q 神はどんな仕事をしているのですか?

 

A 神という集合体のレベルでは、もっとマクロな視野に立って、全体的」事柄に関わる役割を果たしています。天候や自然現象、あるいは社会現象流行など)といった、エネルギ —のバランスに関わることです。

 

一個人という先端の社員の動きを観察するために、必要な環境を整え、維持するのに大きな役割を果たしているといえるでしう。必要があれば厳しい環境に社員を送りこむこともあり、逆境を乗り越えてその社員が成長すれば、神という全体のレベルアップにもつながります。

 

このことからも、自分の属する会社である神にお供えをし、崇拝したりするのは筋違いの行為ということがお判りいただけるでしうか?

 

 

Q では、神に祈る時はどうしたらいいのでしうか?

 

A 自分が神の一角なのですから、祈りは自分に対する宣言確認ということになります。

 

むしろ、今の環境を整えてもらったこと、現状の自然現象が維持されていることを感謝すべきです。

 

集合レベルで人間の意識に混乱が生じれば、天変地異につながりかねません。このため、エネルギーの流れの上でキーポイントとなるような要所には、しばしば社が配置され、無用なエネルギーの沸勝を防いでいるわけです。

 

 

ですから、「神の怒りを鎮める」とは、集合意識の一角である自分の意識を鎮める、ということです。

 

 

どんな境遇であれ、自分が今、そこにそのようにあることを自分に、そして周囲に感謝すること、その環境を精一杯生かし切って、滑ったり転んだりしながら学びつつ、杯生きること・・・である自分を敬うとは、本来そういうことです。

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