佛國寺の沿革
佛國寺は平安時代、南都六宗(倶舎・成実・律・三論・法相・華厳の六宗)の一つ「三論宗」の寺院として漢人慧恩法師によって創建されました。
ご本尊は阿弥陀如来座像、脇侍は観世音菩薩立像・地蔵菩薩立像です。一般的に阿弥陀如来の脇侍は観世音菩薩と大勢至菩薩ですが、平安時代以前の古い形式では観世音菩薩と地蔵菩薩であったようです。この事からも佛國寺は平安時代以前に建立されたと思われます。
創建以来、天変地異(年代は不明ですが、裏山が崩落して本堂庫裡が大きく損傷したと聞いてます。)や、二度の大火に見舞われました。
一度目の火災は、今からおよそ500年前、室町時代に春日の僧兵による龍門寺の焼き討ちにあい佛國寺も焼失。二度目は、245年前の安永7(1778)年7月13日に「河原屋の大火」が起こり本堂・庫裡が全焼しました。時の住職は必死になってご本尊・脇侍等を火中より出し焼失を免れました。この時村の鎮守「大名持神社」同境内地の「大海寺」、民家はことごとく焼け落ち、残ったのは2軒の蔵だけであったと伝えられています。
檀信徒の皆さんは寺と神社の焼失を憂い、我が家の再建と共に寺・神社の再建という大事業に乗り出しました。そこで時の住職光誉在天和尚が檀信徒の皆さんと心を一にして完成を目指しました。そして、7年後の天明5(1785)年4月に落慶に至りました。以来、佛國寺は天変地異・火災にあうこともなく無事に現在に至っています。ありがたいことです。
佛國寺が浄土宗に改宗されたのは、室町時代のことです。浄土宗の第七祖 了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人(1341~1420年)が大和の国の吉野地方を巡錫された折、法然上人(1122~1212年)の説かれた「本願念佛」の教えを広めました。そこで佛國寺を河原屋村の浄土宗の念佛道場として浄土宗に改宗した。ということです。
以来、佛國寺はお念佛の教えを広める拠点として総本山を知恩院とする浄土宗に帰属しました。
時は明治時代に入って、国は国家の宗教を神道とすべく、「神仏分離令」が公布されました。それまでは神仏習合の考えの元、寺院と神社は一つの境内地に建っている所が多く存在していました。ちなみに佛國寺は単独の境内地で構えていました。ところが区内の大名持神社と真言宗「大海寺」は同じ境内地に建っており、神社の敷地内から佛教関係のものはすべて排除すべく、大海寺におまつりしていた「十二社権現」「大般若経六百巻」「弘法大師像」を佛國寺に移転し、また、村内北部に「薬師庵」という小さなお堂があり、本尊の薬師如来も同じような時期に佛國寺に移転したということです。結果、佛國寺の本堂内には数多くの佛像や経典をおまつりするようになりました。当然真言宗「大海寺」は佛関係のものを搬出した時点で廃寺となりました。最後の住職を、妹山岩根和尚といいお墓は佛國寺内の墓地にあります。
このように記しますと佛國寺は大きな寺院のような印象を受けますが、当山は田舎のどこにでもあるような「こぢんまりとした」寺です。
佛國寺はこのような経過で現在に至っています。
また、当山は人形浄瑠璃『妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」の舞台、また天然記念物「ツルマンリョウ」が群生している「妹山」のある村にあり、間近に妹山樹叢をきれいに眺めることができます。
住職は岡典正と申します。住職歴43年です。これといった取り得もなく43年が過ぎました。