パナリ土器展示館

 
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パナリ焼き展示館1パナリ焼き展示館2パナリ焼き展示館3
 パナリ焼展示館の入館を希望される方は事前にビームパリ窯までご連絡くださいますようお願いいたします。

パナリ焼展示館
 〒907-1541
 沖縄県八重山郡竹富町上原397-4

ビームパリ窯
(パナリ焼作業場)
 〒907-1541
 沖縄県八重山郡竹富町上原324-96
 電話(0980)85-6423
 

 パナリ土器とは西表島の南東にある新城島あらぐすくじま(通称パナリ島)でおよそ200年前まで焼かれていたといわれる土器で、土器の素地の中に貝の粒を混ぜて露天で焼成されているのが特徴です。その歴史や製法等について正確なことはわかっていませんが、八重山で古くから焼かれていたようです。
八重山諸島地図
 パナリ土器展示館は、その謎の多いパナリ土器を25年にわたり再現を続けている西念陶器研究所 西念秋夫(大阪在住)の作品と、パナリ土器がきっかけとなり大阪より西表島に移り住んだビームパリ窯 嘉陽恵美子の作品を展示しています。

 民宿あけぼの館の皆様、とりわけ津嘉山隆氏には、長年にわたりパナリ土器製作の拠点としてご協力いただき、展示館も敷地内に設置していただきました。
本当に心より感謝申し上げます。
 またこのたび、相互印刷 多羅尾様より、新城島で当時焼かれた貴重なパナリ土器を寄贈していただき、今後資料館としても活用する場として広げていきたいと思っています。

パナリ焼展示館管理人 ビームパリ窯
嘉陽恵美子

パナリ土器 復元
     西念陶器研究所 西念秋夫

 

 

八重山の風土

 

 

 

 

 


 パナリ士器
     復元
  
西念秋夫
西念陶器研究所
 骨甕こつがめとして使われたパナリ土器
 一九七五年、竹富島へ旅をした植田米子さんより、石垣の間に挟まっていた土器を見せられ、縄文時代の貝入土器と同じ物が八重山に残っていた事にびっくりしました。
 私は、丁度伝統工芸展の古い体質に疑問を感じ、広く日本を調べ私の専門である須恵器のルーツを探る活動をしようとしていた所でした。
 北海道は寒いし、取りあえず南からと思っていた所で、この八重山から分布調査をすることにしました。そこで考古学の方面より貝入土器を調べようと、天理参考館の金関先生に連絡を取りお聞きしましたが、八重山の事なら九州大学の白木原さんが良いだろうと連絡先をお聞きし、電話をしました。
 白木原先生も八重山までは詳しくないとのことで、沖縄の日田重正氏を紹介していただき、本島に入りました。
 前もって沖縄県立博物館に問い合わせをすると、パナリ土器という物で、新城島あらぐすくじまの焼物だそうですが、博物館もまだ行ったことがなく、詳しくは分からないと言う返答でした。
 日田先生は、お会いして、「パナリはすばらしい物で私も調べたいのだが勤めもあり、一緒には行けない。」と、私一人で八重山へ行くことにして、石垣に八重山博物館があるので先にそこを訪ねるようにと言われました。石垣は初めてなので、新聞で民宿を探し、明石あかいしにある明石荘に決めて出発しました。

 大阪からの直行便はなく、那覇で南西航空のキャンセル待ちをして、やっとの思いで石垣空港に着き、八重山博物館へ。
 博物館でも、新城島へはまだ行った事がなく、パナリは下地で作られていたようだが、下地は無人島で、食料持参でないと行けないと言われました。
 また、西表大原にある東旅館さんは、パナリ出身なので、島へ渡るには頼りだろうと紹介されました。
 大原の桟橋のすぐ上に東旅館さんはあり、一泊して明朝、新城島へ船を出していただく事にしました。夜、部屋の中でカナリヤのような鳴き声がして、見渡しても小鳥などいないし、あちこち調べたら、電球の上のほうで鳴いているヤモリでした。八重山のヤモリはさえずるのでした。

 あくる日、米と食糧を買い込んで島に渡ることに、しかし、なかなか船は来ませんでした。やっと来たと思ったら「今日どうしても渡るのか。」と、言われ「飛行機の予約もあり、行かないと。」と、言うと「雨合羽を着ろ」と、言われました。
 天気は晴れ、おかしい事を言うと思っていましたが、大原から一キロメートルほど外海へ出たとたん、大きな波のうねりで、洗濯機の中に放り込まれたような大シケで頭からバケツで海水を浴びせられる格好で、カッパの意味が良く分かりました。海は、強風で白波が立っていたのです。
 しかし、その海も新城島が近づくとうその様に静かになり、砂浜へ近づきましたが、風が強く浜に着けられないので手前で「飛び降りろ」と、言われました。
 リュックを背負い、立てると飛び降りましたが、リュックの重みであえなく転倒。
 ずぶ濡れで浜へ上がると、船はさっさと帰ってしまいました。
 上陸はしたものの、ずぶ濡れの衣服やカメラを浜で干す羽目に、途中で帰りの船の予約をしていないのに気づいたが、後の祭り。空は晴れ、海は真っ青で私の気持ちとは、まったく逆でした。

 意を決して無人島へ。
 桟橋があり、島の奥まで道があった。登っていくと、アレアレ、花壇があり椰子の並木があり、民家も牛小屋も、ここはパナリ牧場でした。島には牧童の人五人と責任者、与義さんがおられました。
 島には、ダイビングの人も来ていて賑やかでした。事情を説明して、島を歩く事に。
 ハブがいると思い、キャラバンシューズ・手斧・水筒と、小型ツルハシ・サンプル入れ。
 島の外周に道があり途中、牛よけの柵がいくつも作られていた。
 萱の生い茂る道で、アダンなどつるらしい棘のある木も多い。島の北に桟橋、西にはいくつもの古墳らしい珊瑚石積みの墓が大小おびただしく続く、南には住居跡の石積みの礎石が残る。
 島全体に、ソテツがはびこり体に刺さって大変でした。北と西に貝塚らしい盛り上がり、その上層は戦前の瀬戸物やビール瓶が散乱していました。特に、西は古代から現代まで続く貝塚、いやゴミ捨て場、シャコ貝と高瀬貝の多い貝塚です。日陰には牛と共に蝶が多くいます。平らな所は牧草が植わり、バッタが飛び跳ねていました。

 さて、パナリ土器ですが、道にカケラがポツポツと見つかりますが、どこにあるのか定かではありません。南の方は、岩壁になっていて、ジュゴンの御嶽うたきがあったそうで、骨が散らばつているらしいのですが、その痕跡はありませんでした。津波で打ち上がった大岩が南にいくつも見え、そのせり出した岩のすそに、シャコ貝の碗やくぼみ石があり、古いものだと思って石垣の八重山博物館へ届けることにしました。
 東には、鍾乳洞があり、人一人やっと入れる隙間より入って、二〇メートルで大きな部屋となり行き止まりでした。
 与義さんに聞くと、戦後アメリカより新城島下地を購入し、入植した当時、水は無く、朽ち果てた家の中に、パナリの壷や鉢がそのままで残っていたそうで、牧童らが石を投げてよく割っていたそうです。
 十年ほど前、古陶ブームで内地より墓荒しが夜にやって来て、墓地のテーブル珊瑚を持ち上げて中の骨甕こつがめを出して骨を捨て、みんな持って帰ってしまい、今はカケラしかないとのことでした。
 夜、電気は無く、自家発電のジーゼルが唸っていました。その冷却水を牛用のコンクリートタンクに溜め、風呂になつていました。
 食事は、与義さんが作ってくれました。
 この島のどこでパナリが焼かれていたかを聞きましたが、粘土は北東の水田跡にあると教えてくれました。帰りの船はパナリ牧場チャーターの、飼料運搬船。
 来年は、パナリで土器の復元に挑戦することにしました。

 翌年、粘土作りの準備をしてパナリへ入りました。土は、水田跡の地下一メートルより掘り出し、貝は桟橋の浜砂を利用しました。
 赤黒い土で粘りもあり、浜砂を二割混ぜて土器を作りました。
 二日干して、椰子の葉で露天焼をしました。八百度はあがったようであくる日、土器を出しに行きました。
 赤く焼けて色はパナリ土器そっくり、よく焼けていて食堂に持ち帰り洗ってガジュマルの下へ並べました。
 少し経つと、全体に白いものが吹き出てきておかしいなと持ってみると、バサッと崩れてしまいました。十個作ったもの全部、もろく潰れてしまったのです。持つと熱い位に熱が出ていました。
 これは、水洗いで浜の砂が膨らんでしまったのでした。実は、浜の砂は珊瑚のカケラだつたので八百度で生石灰となり、水洗いで消石灰の粉として噴出したのでした。
 その為、土器全体にヒビが入り持とうとしたらバラバラと崩れたのでした。
 大失敗、私はこれまでに土器焼を何度も指導してきたので、復元など簡単だと思っていました。これは手ごわいと感じました。
 それ以来、何年も通いつめ、五年目にやっと形も崩れなくなりました。

 パナリの本物をよく見ると砂ではなく、貝を細かく砕いた、鱗片状の貝が入っていたのです。貝は珊瑚砂より生石灰になるのは遅いようで、火の強い所はやはり消石灰化して崩れますが、八割ほどは無事に焼き上がりました。
 そこで、もう一人の経営者である料亭「那覇」の女主人、上江津さんに会いパナリ焼の復元と、土器制作の許可をもらいました。
 その足で、日田先生を訪ね、パナリの復元成功を伝えました。一緒にタイムスへ行こうと、タイムスビルヘ。
 復元成功はオキナワタイムスに大きく写し出されました。

 そんな嬉しい話とは別に、牧場全体を大きな砕石機で表面を平らにし、牧場に機械を入れて、土地改良をする話を聞きつけてしまいました。その前に古い古墳並の墓を調査せねば本当のパナリのルーツが失われると思い、考古学の人たちに調査を呼びかけましたが、何せ遠く、本業が忙しくて、八重山まで手が回らないとのこと。仕方なく、石垣市教育委員会に保存を、八重山博物館の新城さんと一緒に知らせました。
 しかし、開発は進められ、十分な調査もされないまま、島は平らに砕かれて墓もほとんど、潰されました。
 保存運動も抑えられ、私は島へ入れなくなってしまいました。あきらめられず、西表西部上原の津嘉山彦さんに古墳の保存を訴え、町議会で取り上げてもらいましたが、もう遅く、円墳の直径三十メートルの一つが残されるのみで、後は平らになってしまいました。

一基だけ残ったパナリ島下地の古墳(1998年撮影)

 その後は、上原のあけぼの館津嘉山隆さんの庭で復元を続ける事ができました。
 私はただ、一つ残った古墳が全てを明らかにしてもらえると確信しています。

 西表での復元は、新たにパナリを体験したいと言う人が年に一人ぐらいは来られ、十五年目に、石垣市公民館で「よみがえるパナリ土器展」を四名の人で行う事ができました。その後、あけぼの館の一角に、赤瓦ぶきの小さなパナリ土器展示場を作ることができ、裏千家の淡交〇四年五月号に「復元パナリ」を取り上げていただきました。

 さて、パナリの歴史です。これは私の私見ですが、日本語の起源が、ウラルアルタイ語に属し、海洋民族がインド方面より北上してモルジブの石積塚やカツオの燻製と同じに日本へ伝わったのではないでしょうか。さすがに縄文時代とは、直接つながってはいないようです。しかし、沖縄あたりから出土する外耳土器にも貝は混入されています。
 新城島だけでなく、八重山全体でパナリ土器は焼かれていたようで、李朝実録には、与那国へ漂流した李朝の人が、露天焼の土器をもらい使っているうちに三日で朽ち果てたという記録が残されています。まさに焼きすぎで崩れるパナリです。
 また、竹富島は古くからパナリ焼アヨウが歌い継がれ、パナリ土器の製作の様子が伝わっています。
 「赤土ばくなし、白土ばくなし、牛の血とカタツムリ、スナヅルの粘液を加えて土器を作り、ガヤで一日ゆるい火で焼く」と、伝わっています。
 私なりに解釈をしますと、赤土はねば過ぎて、焼く時に水蒸気を内にはらみ爆発の恐れがあるので、砂の無い島では、巻貝の粉を混ぜて爆発を防いだのでは。弥生土器の砂の代用でしょう。白土とは貝の粉です。
 赤土は、ねばいのですが、水をつけると土切れて器が割れてしまいます。これを防ぐのに植物の汁を加えると器が切れにくくなります。牛の血ですが、南方の漆制作の下塗りは豚の血を使用していました。そこで、吸水性の大きな土器の水止めに焼いた後に塗っていた可能性がありますし、パナリ独特の赤い焼け色で、血を塗っているのだと思ったのでしょう。どちらにしても実際作っていたパナリの人ではなくそれを見た竹富の人の想像が含まれると思います。
 土器を熱いうちに出して、植物の汁を塗って水止めにする方法は、南の島々では、今でも行われています。
 カタツムリは、島では貴重な食料で戦後まで、お汁に入れて食べていたそうです。殻は、高瀬貝等と一緒に貝粉として混ぜられたのでしょう。
 金属の使用が、江戸までは無かった八重山では、パナリ土器は鍋・釜・食器として作られ、骨甕やタライも作られていました。パナリ(新城)では、ごく最近まで焼かれていたようで、貝入り土器を新城島の呼び名(パナリ)になったようです。
 しかし、明和の大津波では、島民はほとんど死んでしまい、琉球政府は外の島より新たに入植者を新城島に入れています。
 それが、パナリの滅んだ理由ではないでしょうか。

 パナリ復元には、三十年もかかりましたが、今後パナリ土器を、どのような形で残していくかは、新城島や八重山の人たちにゆだねる事が大切と思います。
 二年前より、自由の森学園の体験学習で、新城島・上地で土器作りを行いました。その時、お世話をしていただいた区長の島仲さんが、島の文化として残したいと言われています。前に、土器に塩を入れ一緒に焼いて、西表焼塩を作りましたが、土器が吸水性があり塩が噴出して大失敗しました。皇砂入や、貝を入れて島の土産にもなるかと思っています。
 古くは、利休さんが建水や水指に使っていますので、茶の方面でも使っていただけると思います。

 

 

 

 

八重山の風土
                  西念秋夫
 沖縄本島より南方、台湾によく似た気侯風土をもつ八重山諸島は、大小19の島々からなり、もっとも大きな島は西表島てすが、政治の中心は、住所地番が『八重山郡竹富町字西表』と示すように、かつては石垣島のすぐ側にある小さな島、竹富島にありました。地理的条件が、いかに生活や文化に影響するかを物語るかのように、八重山諸島は沖縄本島と違った文化をもっています。

八重山諸島の自然は、3月から8月にかけて台風の通り道となり、風速が80mにまで及ぶことも珍しくありません。気流の関係もあって、通過してから、またUターンしてくるという台風もあり、4日から5日間も暴風雨圏内に鎖されることもしばしばあります。この地に身を置けば人間の力のなさを感じ、自然に従って生きる島の人たちの悠然とした生活が分かるような気がしてきます。 八重山諸島最大の島である西表島は、今も全島、国有林(90%)に覆われ、天然記念物になっている『イリオモテヤマネコ』『背丸箱亀』『先島蘇芳』『ニッパ椰子の群生』などが残り、八重山諸島の中でも、もっとも自然の豊かなところです。

 

 先島蘇芳[サキシマスオウ]の木
(写真提供:上野勝典)

 背丸箱亀 (写真提供:福澤雅樹)

 しかし、敗戦直後までは石垣と同様マラリアが蔓延し、人も住めない秘境でした。山があり、水も豊富で水田耕作にも適した住みやすい島には蚊も住みやすく、蚊を媒介とするマラリア病の免疫がない人達は、水もない小さな周辺の島々に住んでいたようです。八重山伝説によると、マラリア病は『オランダ船が中国移民を乗せてアメリカに向かう途中、移民が発病し、西表島に寄港した時以来マラリアが広がった』という事になっていますが、台湾では古代から風土病としてマラリアが存在し、地理的条件から考えると、西表島にはもっと昔から入ってきていたものと考えられます。

 江戸時代、琉球王朝を支配した薩摩藩は、年貢として米の供出を強要しました。困窮した琉球王朝は、八重山諸島に米の生産を強制しました。八重山の稲作は弥生時代の物と思われる石包丁(稲刈り用)が一点、新城島下地で発見されたのみで、その歴史は定かではありませんが、江戸時代には先のような理由から、西表島にも耕作のために渡らざるを得ませんでした。しかし、マラリヤの存在する過酷な風土は、女性・子どもを寄せつけず、男性しか渡ることができませんでした。そして、マラリアで死ななかった者のみが結婚を許されたという、厳しい歴史があります。

 マラリアに関する歴史的大事件に、波照間島の日本軍の蛮行があります。敗戦直前、米軍上陸を理由にした日本軍が、波照間島のいやがる島民を西表島へ強制移住させました。当然のことながら、マラリア感染は抵抗力の弱い子供に集中し、結果的には疎開者の36%、461人もの人が亡くなりました。その蛮行の記された石碑が波照間島にあります。また、西表島南風見の浜には、当時、帰島のために尽力された校長先生が、『忘勿石』(わすれないし)と、岩に記されたものが残っており、その痛ましい事件の証人として、今も語り続けています。

(注:第二次世界戦争後、西表島では特効薬と病原虫の駆除がすすみ、この30年間、マラリアの発生はありません)

 忘勿石の碑(写真をクリックすると碑の全景を表示します)
ニッパ椰子(写真提供:福澤雅樹)

イリオモテヤマネコの剥製
(西表野性生物保護センター)