パナリ土器のこと

 パナリ土器のこと  (嘉陽恵美子)

 

 日々の私たちの食卓を彩る器は、陶器や磁器になって久しい。

 粘土で形作り高温で焼成し堅ろうな器にできる窯が生まれる前、いまから1万年前から古墳時代以前には、露点焼成による土器があった。

煉瓦で覆われることがないため、高温にいたらず素地が焼き締まらない。陶器や磁器に比べ、吸水性があり、水を入れると多くがしみ出してくる。

 

 日本には斬新なデザインでエネルギッシュで世界でも最も古く長く作り続けられた縄文式土器と、形がシンプルになり無地か幾何学的な彫文様が施された

弥生式土器があったが、さらに沖縄の八重山には縄文式土器や弥生式土器よりはるかに時代が下がるものの、パナリ土器という独特の謎多き土器があった。

 その形は底が丸くおおらかで美しい独特のフォルムもあればゆがんだものもあり、表面には装飾のないなんとも素朴な土器だ。なによりも特徴的な点は、

赤からだいだい色をした素地に細かい貝やサンゴの粒が混じっていることである。

 海の彼方から伝わったものなのか、八重山地方独自で生まれたものなのか。途絶えてしまったその土器の製法やルーツは定かではない。八重山諸島のひとつである新城島で焼かれていたと伝わっている。新城島は上地島と下地島に離れているところから「離れ」の意味で通称パナリ島と呼ばれている。また、黒島から見て離れている島としての「パナリ島」であり、黒島に近い島を上地、遠い島を下地と呼んだという説もある。

 

 新城島の粘土は粗悪であるという伝承があるが、実は非常に粘り気のある赤土が存在する。その赤土に類似した土が西表島や与那国島にも存在するが、採取する場所にもよるが新城島の土が最も粘性高い。

 しかし、西表島や与那国島にも充分粘性のある土があるのだから、パナリ土器を焼いた可能性も考えられる。

 与那国島にある池間苗さんが営む資料館には、パナリ土器のかけらが2ケ展示されておりお尋ねしたところ、「この島ではパナリ土器とは呼ばないが、昔はたくさんあった。今はこのかけらだけである。この島で焼かれていたかどうかはわからない」ということだった。 新城島と与那国島間でパナリ土器の流通があったとも考えられるが、土があるのであれば与那国やまた西表島でも焼かれていた時代もあったのではないかと推測する(李朝実録の成宗実録にパナリ土器かと思われる記述がある)。

 

 パナリ土器に関する少ない文献のひとつに、同治拾三年(1874年明治7年)記された「八重山嶋諸物代付帳」がある。貨幣が流通せず米その他の穀物及び労働力で物価を表している。その中に「新城焼火取壱ッ 代夫弐分、同れんかく鉢壱ッ但 同壱人五分、同火炉壱 同壱人三分」等、他に6種類のパナリ土器とみられる品が表示されている。このことから当時どんなものを作っていたのかがうかがえる。また、パナリ土器が途絶えた時期はこの資料が作られた年以降と推測される。

 

 また、参遣状(乾隆14年=1749年)という古文書の中に、

「新城村はもとより土地が狭く、とくに上地・下地が海路四町(436メートル)も離れてあり、そのうえ石原で地味も薄く、他の村と異なり~(略)~の労働で収穫はわずか五分の一ほどしかない。二十七年前の寅年(1722年)にうったえて、古見島(西表島東部)の崎枝という所に渡って耕作するようになった。用水も塩気が強いので、普段から崎枝より調達し、薪木も不自由なので古見の内から取り寄せている。そのような不勝手な所なので耕作だけでは生活できない。

 そこで、水甕・炉・土鍋・諸焼物や莚(むしろ)・蓑の類を作り、村々へ渡って商売の補いとして、ようやくながら生活してきた。

 しかし、去る未年(乾隆4年=1739年)より次の戌年(乾隆7年=1742)まで数度の台風により凶年が続いて飢饉となり、草葉や蘇鉄などを食べて命を助けてきた。前の役人より模合貯米四十三石三斗は差出し、そのうえ黒島・仲間の両村の貯米の内から八十六石二斗五升を借りて上納米をととのえたので、貯石はまったくない。」

とある。以上のことから、いかに新城島の生活が苦しかったかがうかがえ、その苦しい生活の補いとして土器が作られたことがわかる。

 

 竹富島に「パナリ焼アヨー」、黒島に「パナリチィチィヤーミユンタ」という古謡がある。どちらも土鍋を作ったと謡っており、]

さらに「パナリチィチィヤーミユンタ」には、次のような歌詞がある。

 

 「家ぬみかじぃ まやり    (家ごと廻り)

  きぶりゆし 歩き      (煙家戸ごとを歩き)

  土鍋ば はひひり      (土鍋を買ってくれ)

  ぐふ鍋ばぬずみひり     (厚鍋希んでくれ)

  あかまみとぅん かひひり  (小豆と替えてくれ)

  大豆とぅん  くりひり   (大豆と換えてくれ)」

 

 また、竹富島にパナリ焼が登場する古謡がもう一つ、「仲筋ヌヌベマー節」がある。竹富島与人が新城島にある赤甕と良質の苧麻をもらうため、竹富島仲筋のヌベマーというたいそう美しい一人娘を、新城島与人(役人)の賄女として泣くなく差し出した。後に島のために引きさいてしまった親子に詫びいり、悲哀を込めて謡っている。

 

 このようなことをみてくると、パナリ土器の存在を知ったばかりの頃はその形のおおらかさにただ魅かれ、土器がサバニに乗って海を渡る光景を想像してただ美しいと感じていたが、その背景には人々の生活の過酷さがあったということに、私の胸は深くつかれ畏敬の念をいだくばかりである。

 と同時に畏怖の念も覚える。それはパナリ土器の焼成の難しさからくるのかもしれない。

 パナリ土器の素地に混入されている貝や珊瑚の粒は、野焼きによる焼成の際に爆ぜるのを防ぐためと考えられる。土器であれ陶器であれ、形を作るためには可塑性のある土が必要だが、それだけでは野焼きの焼成にはむかない。露天焼成する土器の場合、窯で焼成する陶器と違い温度の上昇調整が難しく、そのため粘り気のある土に砂などを添加することによって隙間をつくり、温度が上がるにつれぬけていく水分をぬけやすくし、爆ぜないように土ごしらえをする。

 ただし、珊瑚礁の隆起した平らな島の新城島は岩石系の砂がないため代わりに貝や珊瑚を利用したようだ。

 一度焼いて砕きやすくした貝や珊瑚を細かく砕き、土に対して2割程混ぜる。貝の種類は当時のパナリ土器片を見ると鱗片状や粒状の形があることから、高背貝クモ貝・アカミナーなど特に限定はないと考えられる。 

 赤土と貝珊瑚片を混ぜあわせ水を加えて良く練るのだが、当時の新城島は今のように西表島からの海底送水はもちろんなかったので、水は天水や井戸水に頼り何よりも大切な命の水であったはずである。そこで、土器作りに真水を使うとは考えにくく、海水を利用したと推測される。

 成型は手び練りだが口づくりを観察すると、簡単な回転台を使ったと思われる。成型後よく乾かし焼成する。

 土器片を見ると表面は赤いが内部は黒いものが多く、すすが取れるくらいの低い温度で焼いたようだ。

 焼き始めの段階での爆ぜ止めの役目を果たす貝珊瑚片だが、温度が上がり過ぎると今度は膨張して土器自体を割ってしまうという、まったく厄介な面もある。

 一見うまく焼けたかに見えても、時間の経過とともに貝片が噴出してボロボロと崩れたり、または焼成後水にひたすとただちに土器は熱を発して壊れてしまう。

 これは貝や珊瑚の主成分である炭酸カルシュウムが一定の温度を超えた焼成により消石灰となり、その際に膨張したためだ。

 

 当時の人々は、露天焼成の火力をどのように調整をしていたのか、という点が未だに悩ましいところである。

 私がパナリ土器と出会う以前にもパナリ土器の復元をされた先人に、沖縄の陶芸家大嶺實清氏・俳優の川津裕介氏・岸和田の陶芸家西念秋夫氏の3名の方がおられる。西念氏には、西表島でのパナリ土器の復元作業に同行させていただき、それがきっかけでパナリ土器と出会いその後西表島に移住することになった。

 大嶺氏と川津氏には、各々方が製作された復元作業のドキュメント映像を拝見し学ばせていただいた。

 私も土器づくりに携わり久しくなるが、未だ当時の人々の技術に追いつけず、生涯たどりつけないだろうと思う。  

 しかしもうしばらく作陶を続け、自分の作品作りにいかしていけたらと思う。

                                                     

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                                  焚き始めの爆ぜどめになる貝や珊瑚の粒が、焼成温度が上がりすぎ(800度以上?)、膨張して素地を粉々に割ってしまった姿

 

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                         民宿あけぼの館敷地にある、「パナリ土器展示館」

                         見学の際は、あらかじめご連絡お願いいたします。