武田信玄の身延攻め

 昔甲州の武将武田信玄は、京都に登る足だまりとして、身延山を己の居城にせんものと身延山へ使者を立てて他の地に移転する様申し込んだ。この時の身延山法主十六世宝蔵院日叙上人は、一山(身延山を指す)の大衆を集めて大評定を開いたが、誰も大聖人の御霊の住む身延山を武田家へ献上する事を承知する者はいなかった。しかし、信玄の要求を拒絶すれば信玄は必ず大軍を引き連れて一山の大衆は一人残らず打殺され、七堂伽藍は焼去さられる事は火を見るよりも明らかであった。どうしたら良いかと意見轟々として決定しなかった。その時、身延山法主日叙上人は御籤を引いて腹を決める事にした。念じ引いた御籤は「意思を鞏固に持てば吉」と出た。そこで、一山の大衆は死なばもろともと悲壮な覚悟をもって山を守る事に衆議一決した。しかし、この旨を武田家に伝える使僧を定めるのに困窮した。なぜならば、この大役を果たす者は正に死に赴くに等しいからである。

 

 この時、西谷の岸之坊に日代と云う(当時十九歳)青年僧が自ら進んでこの大役を買って出た。法主は健気な日代の気持に感激して使僧になる事を許し、法主が常日頃肌身離さず愛用していた珠数と御本尊を御守として与えた。日代は母親に決別して、翌日一山の運命を背負って決死の覚悟で甲府城に向って出発した。その時一山の主なる人々が、これが最後の見納めかと身延の外れまで(現在の逕泉坊の地)見送りをした。そこで日代が最後の別れとして、傍らにあった小松の枝に法主から戴いた御本尊を甲府城に向ってかけ、一同と共に強伏怨摩経力不唐(鬼門除け)の祈祷を行った。日代は、「私が今ここで占ってみましょう。私がお経をあげながらこの御本尊を閉帳します。その時に、御本尊の両端が鉋丁で切った様に折りたためたら私の大願が成就するものと思って下さい。もし不揃いだった時は、大願が成就しないものと思って下さい。」と云った。そして、お経をあげながら閉帳した所、不思議な事で両端が鉋丁で切った様に正しくたためたのだった。これにより日代は自信を得て、「この大役は必ず果し得る事と思いますので、ご安心下さい。」と述べた。それまで此の道は「下山峠」と呼ばれていたが、日代がここで占ってからは「御判峠」と呼ぶ様になり、今に至っている。

 

 日代は決死の覚悟勇ましく甲府城に乗込み信玄の面前で正義を披歴し、信玄の欲望を拒絶した。信玄は身延山の意向を聞いて大層立腹し、直ちに大軍に出陣の準備を命じて身延攻めとなった。時は元亀三年四月十一日の事であった。

 

 こちら身延山は、一山の大衆決死の覚悟で堂内に参集し、法華経守護七面大明神を始め、山内勧請の守護神に朝から晩まで寝食を忘れての祈祷に余念がなかった。武田信玄は何千騎の軍勢を引き連れて身延山の裏にあたる飯富村まで出陣し、早川まで押し進んでいた。この早川は日蓮大聖人が「水の流れること矢をいるが如し」と云ったように、急流で有名である。ちょうど信玄の大軍がこの川にさしかかる頃、突如大雨が降って水が急に増え、大木大石をドウドウと押し流す有様と化した為に多くの軍勢が溺死し、また中流まで進んだ武田勝頼の軍馬も濁流に押し流され、勝頼の一命も危うくなった。その時、遥か七面山の方に白雲が湧き上り、厳めしい七面大明神の姿が晃々として雲の間から現れ、「法敵信玄」と一声裂帛のごとく響き渡ると電光が物凄く、白羽の大矢が飛んでいき信玄の前額に命中した。さすがの信玄も馬から落ち、しばらくの間人事不省に陥った。それと同時に、今まで杉の林と見えていた身延山全体が十二神将と無数の軍神と化し、武田勢が来たら目に物見せてくれんと鬨の声をあげている有様に流石の信玄も夢から醒めたように後悔し、直ちに大軍を治めて甲府城へ戻り、その後身延山と和睦をして身延山の大信者となったと伝えられている。その時の十二神将の姿に化した杉木立は身延山思親閣へ登る中腹にある杉並木が「軍人杉」と云われて今も残っている。

 

身延山清正公堂元主管  逕泉坊十一世  光明院日照