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「君が復活しなさい」20230409
「君が復活しなさい」20230409
聖書 マルコ 六章 十四節〜十六節、
今年の受難週は、ほぼ全員がまさに受難に遭って苦しみました。熱や咳で苦しんだ人も多かったのです。ぼくはずっと身体がだるくて、寝てばかりでした。休んでいても、なかなか体調が戻りませんでした。ぼくらの歳なら、風邪から蘇るにも七日はかかります。
イエスは三日で復活すると言いました。三十歳そこそこだったからでしょう。
【イエスは一日で殺された】
木曜日の日が沈むとユダヤでは金曜日の始まりです。その深夜にイエスは捕えられ、夜明けには裁判にかけられ、あっという間に十字架につけられてしまいます。形だけの裁判が行われただけで、実際に一日でイエスは殺されたのですからまさにリンチだったんです。
金曜日の日が暮れるとユダヤの土曜日すなわち安息日になって社会活動は止まりますから、その前にイエスの遺体は十字架から下ろされて墓に納められたのです。
【マルコはイエスを蘇らせません】
土曜日の日が落ちると日曜日ですが、真っ暗な中を墓にいく人はいません。日曜日の朝日が昇るのを待っていたマリアたちがイエスの墓に着いた時にイエスの墓は空だったのです。
今日はどこの教会でも、墓の中にイエスはいなかったと紹介されます。イエスはよみがえられたのだと教えられます。イエスは死を乗り越えて復活なさったのだと言います。
復活なさったイエスは、弟子たちや女たちに姿を現したと四つの福音書のうちの三つが、証言しています。しかし、最初に書かれたマルコ福音書だけは、復活したと言われるイエスは姿を現しません。これがマルコ福音書の一番の特徴であり、信頼できるところです。
復活祭に読むにはふさわしくない福音書だと思われるかもしれません。さらに、今日選んだ箇所は、復活の朝にも関係ありません。
今日の箇所で強調されているのは「イエスが何者か」という問いかけなのです。これが一番重要だとマルコは考えていたのだと思います。
【生前のイエスは何者か】
洗礼者ヨハネだ、預言者エリアだ、昔の預言者だなどと生前のイエスは噂されていたらしいのです。
イエスご自身も自分がどのように評価されているかを気にしていたようです。「君たちはわたしを何者だというか」とイエスは弟子たちに問いかけています。
ペトロが「あなたはメシアです」(マルコ八章二十九節)と答えたことになっております。
教会の基礎だとされている信仰告白文です。ペトロの告白は、他の人々の反応と異なった次元の言葉が使われているようです。すなわち、メシアという概念は新しい世を治める理想的な王や現状から救い出してくれる「救い主」という響きを持ったことばです。
他の人々が洗礼者ヨハネや預言者エリアという現実の人々を想起しているのと違ってペトロの告白は民族宗教と深く結びついている概念的な言葉です。あの洗礼者ヨハネが生き返ったのだ、という響きとはまったく異なっています。
マルコは、「イエスはメシアである」という告白に重きを置いていないように見受けられます。これに対してマタイはペトロによるメシア告白を、最重要視しています。この告白の上に教会を建てるとイエスに言わせているほどです。いままで、マルコとマタイのこの違いを重要だと思っていませんでしたが、これはマルコとマタイのイエス理解が決定的に違う部分であると気がつきました。
「イエスは何者か」という問いに対してマルコは何度も「あれは洗礼者ヨハネである」という告白を繰り返します。(マルコ八章二十八節)
【マルコによって復活とは】
ヨハネが捉えられたという事件を受けてからイエスが公に活動し始めたことにも現れておりますように、民衆がイエスをヨハネの蘇った姿だと解釈していることを拒否しておりません。
イエスの姿はまるでヨハネが生き返ったかのようであったというのがマルコ福音書が伝えている復活の最も大切な意味だと思います。
イエスの噂を聞いたヘロデも、他の人がなんと言おうが、自分が首を刎ねたはずのヨハネが生き返ったのだと言い切っているのです。もちろん本当にヘロデがこのように言ったのかどうかはわかりません。このようにヘロデに言わせているのはマルコであるとぼくは思います。
マルコにとっては、復活とはそういうことです。殺されたヨハネやイエスが、そのままの姿で息を吹き返したりしないのです。そうではなくて代わりのものが立ち上がることを復活であると言っているのです。
【マルコはキリスト教の復活を言わない】
今まで言われてきたキリスト教の復活の概念が全く異なっているのです。
殺された人がそのまま生き返ってくるというのを信じることが必要だといわれますけれども、そんな復活は、正直なところ認められません。
代わりの者が起こされてくるのだと捕えているのはマルコだけです。だからマルコの復活理解だけが本当であろうとぼくは考えているのです。
ヨハネからイエスへ、イエスからぼくたちへ、倒されたはずの者が、まるで起き上がってきたかのように、思えるというのです。同じ人ではないんです。代わりの者が立ち上がるのです。その人も倒されるかもしれないにもかかわらず。立ち上がる人が出現するのだとマルコはいいます。
だから、イエス一人だけがメシアとして生き返ったり生き続けているなどとマルコは言いません。宗教的なメシアが一人だけ一度だけ生き返ったと言われても、そんなものは昔話であって、ぼくらには関係のないことです。
【ぼくたちは】
ぼくらに関係がある復活とは、昔の預言者に代わる預言者が現れることです。洗礼者ヨハネが殺されても、ヨハネに代わってイエスが立ち上がった現実があることです。
イエスが殺されても、まるでイエスが生き返って活動をまた始めたかのように活動を始める人が起こされてくるということです。
このようなことは世界のあちこちで連続して起きているのです。倒された人がまるで起き上がってきたかのようだという現実の出来事がマルコが伝えている復活なのです。
ヨハネもイエスもそういう現実の復活を生きていたのです。
どこかでイエスが復活しているだろうというのではなくて、殺害されたヨハネをイエスが引き継いだように、殺されたイエスを引き継ぐ者が必要なのです。
どこかで誰かが立ち上がるでしょう。というのではなくて、誰もが自分のこととしてイエスを復活させるのです。誰かじゃなくて「君が復活しろ」「君が立ち上がれ」とマルコは言っているのです。一人一人がこのように捉えるならば、世の中を変化させることができるでしょう。