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「希望によって生きる」20230319

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「希望によって生きる」20230319

聖書 マルコ 三十一三十七

 

 あと三週間で復活祭です。最近はハッピー・イースターという商戦を展開し始めたところがあります。ハロウィン、クリスマス、バレンタインに続いてイースター(復活祭)にも託けて(かこつけて・口実にして)金儲けしようと企んでいるようです。

 教会でも昔はイースター・エッグと称して、ゆで玉子に飾り付けして配ったものです。なぜ玉子なのかというと、新しい命の象徴だから、などというのですが、もしそうなら、生玉子もっと言うなら、温めればひよこが孵る有精卵の方がいいと思うのですがどうですか。まあ理由づけなんていいかげんなものです。ちなみにぼくたちは玉子を描いたカードを記念に送る程度です。

 いずれにしましても、ハッピー・イースターなどと、宗教的意味もわからないままで宣伝道具使商売人根性には感心しますけれども、カッコ良というだけで利用する節操(せっそう・信念を固く守って変えないこと)ない生き方には嫌気がさします。

 信念がない人は何にでも流されます。右だと言われれば右へ行き、左だと言われれば左へ行く節操のない人、いわゆる信念のない人は、自分の都合で、いつ裏切るかわかったもんじゃないので、安心して付き合えません。その点イエスは安心して付いていける人でした。なぜなら、「責任は俺が取ってやる」という姿勢を崩さない人だったからです。

 

【試練を超えて大人になる】

 イエスは、荒れ野での修行を捨ててから強い信念を持った人になったのだと思います。このイエスと比べて、いわゆる弟子たちというのは、あっちにフラフラ、こっちにフラフラと強い風に靡(なび)く人たちだったように思います。

 先週の聖書楽講座で話し合ったところ、弟子たちと呼ばれている人たちは、本当の仲間と呼べるような人たちではなかったように思う、とみんなは反応していました。そんな弟子たちったから、イエスが上り調子の時にはイエスに付いて行ったのですが、雲行きが怪しくなると、さっさとイエスから離れたのでしょう。

 イエスが一緒にいた仲間は、その程度の連中であったことをイエスはよくご承知であったはずです。人間というものは、基本的に怠け者です。一本筋の通った生き物になるためには、何か大きな試練を乗り越える必要があるようです。いわゆる大人になるというのはそういうことだと思います。そう考えますと。大人はイエスだけで、の十二人は、まだまだ子どもだったんでしょう。だからイエスの仲間たちは、先生から訓練を受けている弟子のように見えたのでしょう

 

【弟子たちの試練はイエスを見捨てたこと】

 この弟子たちが大人になるきっかけになったことは、十字架に付けられて殺されたイエスを捨てて逃げてしまったことに違いありません。もちろんその後も、たぶんイエスの弟ヤコブの口車に乗せられて教会組織を作らされ、実質的な権威を奪われていたほど弟子たちは不甲斐ない存在でした。突然に人間は変わるわけではなくて、少しずつしっかりした大人になっていくものですからしょうがないでしょう。たとえそうだったとしても、頼りなかった弟子たちも、結局最後は殺されたという伝承が多いことから、弟子たちも最期には信念を持って命をかけた生き方をしていたことが判ります。

 

【イエスは殺される覚悟をしていた】

 まだまだ子どもだった仲間たちと生活を共にしていたイエスは、活動を始めた時から、自分が捕えられ、殺されることを予知していたと考えられます。なぜなら、イエスは、イエスにバプテスマを授けたバプテスト・ヨハネが捕えられたことを聞いて自分の活動を始めた人だからです。だから、自分がいなくなってからの十二人の行く末を案じて、自分は殺害されるだろうという予告を彼らに三度も話して聞かせたのだと思います。この受難予告後の教会が書き込んだ事後預言だという説ありますけれども、この程度の危機予測イエス自らなさっていたはずだ、とぼくは考えております。

 人間は必ず死にます。いつかは去っていくものです。死に至らなくても、年々歳取りますから同じ状態をいつまでも続けていくことなどできません。趣味を通した友だち関係などは、十年程度であることが多いものです。それを思うと、この教会にぼくが顔を出すようになってから十九年ほどになりますから、みなさんとの付き合本当に長いものになりました。辞めたいという意味ではありませんが、それでもいつかは来れなくなります。先日は、安全運転支援装置がいっぱい付いた車に買い替えましたけれども、あと数年経てば免許更新の時に認知度テストも受けなきゃなりません。はっきり言って、いつまで運転できるか判りません。ついでに、牧師にも認知度テストがあったほうがいいと思います。

 とにかく、イエスは危険な綱渡りのような生活をしていたのですから、死の覚悟をなさっていたとぼくは考えております。しかし、十二人の仲間にはそんな覚悟はありませんでした。イエスが天下を取った時には、ぼくたち兄弟を右大臣と左大臣にしてください、と言った弟子がいた(マルコ十章三十七節)ことでも判ります。

 

【自分の死後を弟子たちに託した】

 イエスは、仲間として歩んできた一人一人の動揺(どうよう・平成さをうしなうこと)を予想しながら、自分が置かれている危険な状態をなんとか理解させようとしたのでしょう。

 人間というもの自分が受け入れたいことだけを受け入れて、嫌なことは受け入れないものだからです。弟子たちはイエスが伝えた恐ろしい状況を受け入れることができなかったのでしょう。だからイエスは自分が殺されることを三度も伝えたのです。

 そして、イエスは自分が殺害されることと同時に、自分が復活することを伝えました。ここで言う復活は、今まで教会勘違いしてきたような「イエス自身が生き返る」復活ではありません。端的に言えばわたしは殺されても、三日もせぬうちに、すぐに代わりの者が起こされてくるという意味でですから「後に残された者はそれぞれが自分の担うべき十字架を背負って従って来なさいイエスは言葉を続けているのです。バプテスト・ヨハネが殺されたからイエスが立ち上がったように、イエスが倒されても、イエスの言葉を聞いてきた仲間が立ち上がるだろうと言っているのです。それはイエスを支える希望なのです。

 

【ぼくたちは】

 ぼくたちでもそのような望みがあれば、苦難の時も耐えられるはずです。他者に対する希望は自分を支える希望でもあるのです。

 弟子たちは、イエスが伝えたことを、すぐには、まっすぐに受け取れませんでした。そうであるにもかかわらず、イエスは望みを託しつつ「自分は復活すると言い切ったのです。人を生かし、人に生かされるということはそういうことです。

 ぼくたちは、気づくと気づかないとにかかわらず、希望を託されて生きています。希望を託した側もそれによって勇気づけられて生きています。そのように、希望によって互いを生かす関係の中でこれからもぼくたちは生きていきましょう。

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