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山本丘人記念館オフィシャルサイト|夢呂土

富士高原のまち小山町に位置する山本丘人記念館のオフィシャルサイト。山本丘人記念館は近代日本画革新の旗手で文化勲章受賞作家・山本丘人のアトリエと美術館から構成。展覧会のほか、各種プログラムを紹介。

山本丘人について

 

略年譜

  

1900年(明治33) 

4月15日、東京市下谷区上野広小路11番地(現・台東区上野3丁目)に、父昇(東京音楽学校書記)と母ぬい(縫)の一人息子として生まれる。本名正義(まさよし)。ただし実際の出生は1月8日麻布ともいい、出生直後に東京音楽学校官舎に転居し、出生届けを出したと言われる。

 

1902年(明治35)

下谷区上野桜木町34番地に転居する。

 

1907年(明治40)

東京市下谷区根岸尋常小学校に入学。

 

1913年(大正2)

東京市下谷区根岸尋常小学校を卒業。東京府立第三中学校(現・都立両国高校)に入学。

 

1915年(大正4)

東京府立工芸学校金属細工科(現・都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶとともに、在学中に広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受ける。

 

1918年(大正7)

1月、父昇死去(享年数え年53)。

11月、第1回国画創作協会第1回展を見学し感銘を受ける。

 

1919年(大正8)

3月21日、府立工芸学校卒業。

4月、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学。

 

1920年(大正9)

夏休みの課題コンクールに『娘之坐像』を出品。教授の松岡映丘に高く評価され、以後薫陶を受ける。

 

1921年(大正10)

日本画科選科に編入。

この年『婦女坐像(青梅)』を制作。

 

1924年(大正13)

3月24日、同校卒業。卒業制作『白菊』。

卒業後、映丘主催の画塾、木之華社に入門。

 

1925年(大正14)

第六回帝展に出品するが落選。この頃、本郷洋画研究所に通う。

 

1926年(大正15年・昭和元年)

新興大和絵会第6回展に出品、以後昭和6年解散時まで毎年出品。

 

1927年(昭和2)

新興大和絵会第7回展に直垂姿の松岡映丘(画人の像)を出品。

 

1928年(昭和3)

第9回帝展に『公園の初夏』が初入選。

 

1929年(昭和4)

新興大和絵賞・会友に推薦される。

 

1930年(昭和5)

第11回帝展に『不忍池』が初入選。この作品から雅号「丘人」を使い始める。以後第14回まで連続して入選。

 

1932年(昭和7)

1月、大野美代と結婚。

7月、資生堂ギャラリーにて個展開催。

 

1934年(昭和9)

映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成。

夏、伊豆に取材旅行をする。

 

1936年(昭和11)

6月、東京府北多摩郡小金井村貫井243(現・小金井市貫井南町4)に転居。

10月、文部省美術展覧会鑑査展に『海の微風』を出品、選奨。

 

1938年(昭和13)

3月、師、松岡映丘逝去(享年58)

 

1939年(昭和14)

1月、文展、院展作家12名による「綵尚会」(関尚美堂主催)会員となる。

 

1940年(昭和15)

5月頃、「瑠爽画社」解散。

6月、高島屋主催「青丘会」会員となる。岡田昇らが「一采社」を結成、顧問格となる。

 

1942年(昭和17)

第5回新文展に無鑑査出品。

 

1943年(昭和18)

川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成。

 

1944年(昭和19)

安田靫彦に呼ばれ、東京美術学校日本画科助教授となる。

 

1946年(昭和21)

文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として『望流』を出品。

 

1947年(昭和22)

5月末頃、向井万吉、広田多津、吉岡堅二、福田豊四郎らと下諏訪へ旅行する。第3回日展審査員として出品するが、審査、授賞選考方法に不満を感じる。

女子美術専門学校(現・女子美術大学)教授となる。

 

1948年(昭和23)

1月、上村松篁、秋野不矩、吉岡堅二、福田豊四郎、加藤栄三、澤宏靭、橋本明治、高橋周桑、菊池隆志、向井久万、奥村厚一、広田多津ら13名で「創造美術」を結成。

 

1949年(昭和24)

2月から毎月、創造美術研究会を開催。第2回創造美術展に『草上の秋』を出品。

 

1950年(昭和25)

『草上の秋』に対して芸術選奨美術文部大臣賞が贈られる。岡鹿之助との交友が始まる。

 

1951年(昭和26)

3月、橋本明治、加藤栄三、東山魁夷、森田沙夷、杉山寧と「未更会」発足。

9月、創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となる。

12月、国土会解散。東京芸術大学、女子美術大学を辞職。

 

1952年(昭和27)

ヴェネツィア・ビエンナーレに『山麓』を出品する。

 

1954年(昭和29)

山本丘人、小倉遊亀、吉岡堅二を会員として高島屋主催「鼎会」を発足。

 

1956年(昭和31)

山本丘人、奥村土牛、岡鹿之助、中川一政を会員として兼素洞主催「雨晴会」発足。

 

1957年(昭和32)

ブリジストン美術館で個展開催。

 

1959年(昭和34)

3月、貨物船にて渡欧。4月〜6月パリ到着滞在後イタリアを巡る。パリでは岡鹿之助と行動を共にする。

 

1960年(昭和35)

9月、神奈川県中郡大磯町瀧之沢に転居。第25回新制作展に『夕焼け山水』出品。

 

1963年(昭和38)

山本丘人、東山魁夷、杉山寧、高山辰雄、西山英雄を会員として孔雀画廊主催「五山会」が発足。

 

1964年(昭和39)

5月、『異郷落日』に対して日本芸術院賞が贈られる。

 

1968年(昭和43)

サカモト画廊主催「十一月会」発足。 

 

1972年(昭和47)

4月、東急百貨店(東京・渋谷)にて「山本丘人展」開催。

 

1974年(昭和49)

5月、新制作協会日本画部全会員が退会し、新たに「創画会」発足。

7月、日展、院展、創画会の会員により「遊星会」発足。

 

1977年(昭和52)

11月、文化勲章授章、文化功労者顕彰。

12月、山本丘人、上村松篁、杉山寧、高山辰雄、東山魁夷を会員として兼素洞主催「白虹会」発足。

 

1983年(昭和58)

6月、軽い脳溢血を起こし静養。

7月、遊星展終了。

 

1985年(昭和60)

6月、美代夫人没。

12月、病に倒れ入院。

 

1986年(昭和61)

2月10日、急性心不全のため逝去、享年85。

 

 

 

 

 

山本丘人関係美術団体、研究会

 

 ・美術団体

<日展>

1907年〜 文部省美術展覧会(文展)

 

1919年〜 帝国美術院展覧会(帝展)

山本丘人/第9回(1928年)初入選。第11回(1930年)〜第15回(1934年)

 

1937年〜 新・文部省美術展覧会(新文展)

山本丘人/第5回(1942年)以後無鑑査出品

 

1946年〜 日本美術展覧会(日展)

山本丘人/第2回(1946年)より審査員

 

1958年〜 新・日本美術展覧会(新日展)

 

1969年〜 改組日展

 

<創画会>

1948年〜 創造美術 

山本丘人、上村松篁、秋野不矩、吉岡堅二、福田豊四郎、向井久万、奥村厚一、澤宏靭、広田多津、高橋周桑、菊池隆志、加藤栄三、橋本明治 13名で創立。

 

1951年〜 創造美術、新制作協会と合流

 

1974年〜 創画会

 

 

・研究会

木之華社

松岡映丘画塾

 

新興大和絵会

1921年〜1930年 松岡映丘、川路柳虹を顧問とし、岩田正巳ら映丘の門下生と後に山口蓬春、高木保之助が参加

 

瑠爽画社

1934年〜1940年 杉山寧、山本丘人、岡田昇、松岡貞夫、高山辰雄

 

一采社

1940年〜1961年 瑠爽画社の趣旨を継承しつつ結成、丘人は顧問格として参加

 

国土会

1943年〜1951年 川崎小虎、山本丘人、加藤栄三、東山魁夷

 

未更会

1951年 川合玉堂により命名。山本丘人、橋本明治、東山魁夷、杉山寧、加藤栄三、森田沙伊

 

遊星会

1974年〜1984年 後に草々会となる。山本丘人、高山辰雄、吉田義彦が中心となり結成。