唐津焼窯元 太兵衛窯の公式ホームページです。
肥前の陶磁器生産は1580年代頃唐津市の岸岳城主波多氏が朝鮮の技術を導入し、
岸岳城下で開窯したことに始まる。
しかし、波多氏は文禄の役で豊臣秀吉に改昜され、文禄3年(1594)常陸国に流された。
その結果、保護者を失った岸岳周辺の陶工たちは離散した。
その後、肥前の陶器窯は伊万里や武雄地方など、佐賀県南部に広がる。
一部は長崎県波佐見まで拡大した可能性がある。
こうした陶器生産に、秀吉の朝鮮出兵後に連れ帰られた朝鮮陶工が加わる形で肥前一帯に拡大した。
「多久家之候御書物写」に金ヶ江三兵衛が朝鮮より連れ帰られ
(1598年)多久安順の元にしばらく預けられた記録から、
多久安順の下にいた金ヶ江三兵衛を頭とする朝鮮陶工で、多久から有田皿山へ移住した。
新たな朝鮮の技術をもった三兵衛らが、唐人古場を築窯し、日本での陶器制作の試験焼成したと推測される。
唐人古場窯は1600~1610年頃の間の短期間操業であった可能性が高い。それに対し、
高麗谷窯は出土品がより多彩なように、胎土目積階段の終末期に始まり、
三兵衛らが加わって陶器の試験焼成の始まりであり、1590年代末~1610年代前半頃と推測される。
高麗谷窯で、古田織部の影響を茶陶から、新たな高麗茶碗写しや白磁の試験的制作、
白土を用いた装飾の陶器が始められるのが重要な特徴である。
太兵衛窯では、佐賀県多久市北多久町小侍にて、金ヶ江三兵衛の優れたデザインを
現代社会に適した造形にて、北多久の土を使い多久古唐津の再現に至りました。
絵唐津(鶯色、琵琶色)青唐津、黄唐津、粉青沙器(粉引、鶏龍山手)彫唐津、黒唐津(蛇喝、織部唐津)
二彩唐津、唐津釉裏紅、唐津鈞窯(月白釉、紫紅釉、天青釉)五彩唐津、
河南天目(黒釉銹花、兎毫盞、)斑唐津(斑、絵斑)唐津青磁(飛青磁)、瑠璃唐津、
唐津白磁、三島唐津(彫、花、暦、刷毛、絵、檜垣、御本)等々