宗教法人 聖林寺

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聖林寺の寺号

聖林寺の歴史には分からないことも多い。多武峯二十六勝志に見るように、この寺は談山・妙楽寺(現在の談山神社)の支院の一つであり、藤原定慧を開基としている。明治初頭の神仏分離のとき、談山山中の伽藍が尽く神社に改装され、山中の塔中すべて民家に還俗した中で、唯一仏教寺院として残る幸運を得たのである。  さて、聖林寺という洒落ていて少々近代的な響きのある寺号は一体何に由来するのだろうか。 山添村の寺院から見つかった鎌倉初頭の写経 享保のころ、秋篠寺から妙楽寺に入った談山の座主、大僧正・子暁は当時遍照院と呼ばれていたこの寺に空号になっていた聖林寺を当てたという。ところが、元の聖林寺については、その存在さえ何時まで遡るのか分かっていなかった。近年(昭和六十二年)元興寺文化財研究所の調査で山添村の寺院から鎌倉初頭(一二〇五年)の写経が見つかり、それによってこの寺が意外に古いことが確かめられた。奈良時代と言わずとも聖林寺は鎌倉の初めには存在していたのである。聖林寺の有り様を示す古い遺物や資料は残念ながら何一つ残っていない。山寺の多くがそうであるように、誰が何年に建立したということでなく、信仰の場としていつのまにか寺院の姿を整えて妙楽寺の支院になったのであろう。その間、幾度も火災に遭ったに違いない。そもそも多武峯の妙楽寺自体の歴史にも謎が多いが、その山内にありながら○○院という院号でなく寺号で呼ばれた昔のこの寺の有り様が気になるのである。

子安延命

江戸の中頃、三輪の平等寺(大神神社の神宮寺の一つで平安の初め慶円上人によって創建され、中世から大御輪寺に代わって三輪明神の実権を握った)の長老玄心和尚が聖林寺に隠棲した。この頃から明治の神仏分離令によって神宮寺が滅びるまで、聖林寺と三輪の神宮寺の交流が繁く、天台寺院である妙楽寺の山内にありながら、聖林寺は真言宗の律院(戒律の厳しい寺)として後に述べる特異な性格を帯びることになるのである。 子安延命地蔵 享保の頃、この寺の僧文春は女人泰産を願って一念発起、大石仏造像の願をかけて諸国行脚の旅に発つ。寺伝では、和尚自身の姉が幾度も出産で難儀をしたと伝えているが、江戸時代にはお産で苦しむ婦人がこの界隈にも多かったのであろう。現在の本尊、子安延命地蔵尊はこのようにして和尚の四年七ヶ月に及ぶ托鉢による浄財で造像された。造像にあたって地蔵菩薩が文春和尚の夢枕に立ち自ら仏師を指定したという。 爾来、安産と子授けのお地蔵さまとして人々に親しまれてきた。聖林寺の子授けの祈祷は大要を真言密教の法則に拠っているが、又この寺独自のものがあり、霊験あらたかである。

十一面観音

十一面観音は、よく知られているように、かつては三輪山・大御輪寺の本尊であった。大御輪寺は奈良時代の中頃、大神々社の最も古い神宮寺として設けられ、十一面観音はその本尊として祀られてきたという。明治になると神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるが、既に幕末はその前触れがあったのであろう。十一面観音はじめの三体の仏像は慶応四年五月十六日、大八車で三輪からこの地に避難された。果たして、廃仏の波は三輪の神宮寺を呑んで、凡ての仏教関係の物は破壊し尽くされた。本尊の観音様がどのようにして、何のために祀られてきたか、今となっては知る由もない。観音さまに関した書類凡てが灰燼に帰したからである。当時聖林寺の住持は大心和尚であった。和尚は三輪流の十一面観音法(この観音さまの拝み方)の伝授を受けた唯一の人であり、観音さまは三輪流神道の正嫡が住む寺に移られたのである。

安産祈祷

ご夫婦のお名前、ご住所、出産ご予定日をお伺いします。 ご祈祷料は10,000円です。 妊娠された方の無事のご出産とお子様の健康を願ってご祈祷します。 腹帯をお持ちください(何枚でも)。受付で帯の上に御朱印をさせていただき、ご祈祷させていただきます。ご使用になるさらしの帯やコルセットタイプのものでも結構です。 授与品:腹帯(お持ちいただいたものに御朱印を押したもの)、お札、御守り
2024.05.19 Sunday
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