伊賀焼について
伊賀焼とは
伊賀焼とは桃山時代の茶陶伊賀を言います。
それは筒井定次が、伊賀の領主であった1585年(天正13年)から1608年(慶長13年)にかけての24年間に焼かれたもので、
特に耳付花入、耳付水指が有名です。
その中でも重要文化財として畠山記念館所蔵の耳付花入銘「からたち」は加賀前田家に伝来した花入で、
伊賀の中でも破格の美を象徴しています。
焼成中に頭部が割れて欠失し、その残片が胴に散っているという所から棘のあるからたちの花に因んで名付けられたと言うことです。
伊賀の穴窯
また五島美術館所蔵の重要文化財、耳付水指銘「破袋」は大阪城の武将大野主馬に送られたもので、
古田織部の添書があります。「今後これ程のものは出来ない大きな罅割れが入っているが、堪忍なさい。」と。
本来「破袋」の銘はなかったが重要文化財指定に際して名付けられました。
伊賀焼はこうした破格の造形美意識を持ち、哲学的思考を盛りこんだ焼物と思います。
こうした伊賀の基をなす焼成法は、筒井氏が大和の国衆あった故に、須恵器を作る職人をかかえていたためと思われます。
それゆえ、穴窯の極限の焼成方法による伊賀焼が出来ました。
秀吉の恩賞として
戦国時代の茶陶は、織田信長が戦功の代償として焼物などを武将にあたえていたことで、
秀吉は政治的な役割の一つとして伊賀焼をもちいたのではないかと思います。
信長没後、秀吉の天下になっても家康の力が大きく、そのため豊臣方の武将達に服従させるための道具としていたとも思えます。
それは裏切りは許さずと見てとれます。
花入は武将の甲冑をつけた立ち姿で、水指は甲冑を付けて座した姿と見ます。
そして伊賀焼の造形は、骨格のたくましい体とか、やさしい武将とか、年をとった武将とか、
いろいろな人物像として各々埴輪としても見てとれます。故に一つとして同じ物はありません。
その一つ一つが、あるものは頭がもげ、あるものは頭に傷をつけ、そこから血が流れ出たような一すじの鉄で描いた作意が見られ、
暗黙の圧力であるように思えます^
また、花入を見ると正面と後がはっきりしていて、正面の方は穴窯の中の火裏で明るく、後は窯の火前で黒く焦げています。
この黒く焦げた方は千利休で、明るい方は古田織部です。伊賀焼の特徴はまさに、
利休と織部の中間的美意識を持っている筒井定次の焼物ではないでしょうか。
故に伊賀焼の花入は利休を背おっているがごときに見えます。
秀吉の戦略
こうした花入、水指は豊臣方の武将に多く送られ、徳川方の武将には見られません。
伊賀焼は秀吉が作らせた焼物であると言えるかもしれません。
故に秀吉にかわいがられた筒井定次は、羽柴の姓を賜り、羽柴伊賀守定次と名のりました。
藤堂伊賀
そして、秀吉の死後1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いで、定次は東軍に属しながらも筒井氏が弱体になり、
キリシタン大名であったこともあり、伊賀の領主としては不適格とされ、1608年改易の憂き目にあいました。
そして家康の時代になり徳川磐石の時代が来るまで、伊賀一国と伊勢八群の領主となった藤堂高虎(1556〜1630年)が藤堂伊賀をつくり、
徳川方の武将に伊賀焼を送り、圧力をかけたものと思います。
藤堂高虎の嫡男二代藩主、藤堂高次時代になっての伊賀焼は遠州好みと推測され、
京風の作意が加わり桃山時代すなわち筒井伊賀の命をかけた迫力がなくなり、後伊賀焼は途絶える事になるのです。
そして、昭和初期に上野城と松尾芭蕉を祀った俳聖殿を自費を投じて独力で建立した、
郷土の政治家川崎克(号克堂)先生の復興伊賀焼で、再び今の伊賀焼へとつながっていきました。