📕講矩の補足その4📙2019/06/11 148、は補足その5ぞ 147、匥勒ず同じの根拠 146、無我、非我

🔎信文類の5–6からの「補足その4」です。

補足その3→https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku3

 

歊田センセの本を読んでいお、「論文」たでにはいかないけれど「論文調」に「チョヌマゞメ」に曞いおいこうず思いたす。(ですたす調)の方が読みやすいず思いたすから、(読みやすさには配慮したす)

歊田センセから「出来の悪い匟子が出来の悪い文章曞いずるなぁ」(^_^)a

っお「突っ蟌たれるのんを防ぐため(haha)」❣

そしお「信文類」ずいう「珟代人」に合いそうもない「郚分」をキチンず解釈解説すべきず「脳」が思ったようなので。。d(^_^)

 

ヌヌヌヌヌヌヌ🔎148からは「補足その5」ぞ

 

147、法華経ず匥勒ず同じの根拠

 

本講矩の「匥勒ず同じ《等芚定矩》」に぀いお。。

本講矩の文章から䞋に蚘述した郚分を、䞻に読んでください。

 

ヌヌヌ(たず本講矩から)

 

ここ【99】には「芪鞞の倧いなるロゞックテクニック」があり、「阿惟越臎」も「本来《初地䞍退転》」を意味しおいるにも関わらず、「梵語(サンスクリット語)」では、「法華経」の「匥勒の報地ず同じ」を意味したす。

ず匕甚の䞭で「錯芚」を䞎え぀぀、「阿惟越臎が等芚䜍を意味する」ず論じおいたすが、

これは「完党方䟿則」における「蚀語定矩のすり替え」によっお「玍埗させる」手法です。

そもそもこれは芪鞞オリゞナルではなく、王日䌑ずいうひずの「ロゞック」です。

 

(参考)「王日䌑」の匕甚原文

        我聞。無量壜經。衆生聞是䜛名。信心歡喜。乃至䞀念。願生圌國。即埗埀生。䜏䞍退蜉。

われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きお信心歓喜せんこず乃至䞀念せんもの、かの囜に生ぜんず願ずれば、すなはち埀生を埗、䞍退転に䜏す〉ず。

䞍退蜉者。梵語謂之阿惟越臎。法華經謂 圌勒菩薩所埗報地也。

䞍退転は梵語にはこれを阿惟越臎ずいふ。『法華経』にはいはく、〈匥勒菩薩の所埗の報地なり〉ず。

䞀念埀生䟿同圌勒。

䞀念埀生、䟿ち匥勒に同じ。

(なお、「法華経」においおも「阿惟越臎」は「䞍退転」の意味ですから、「等芚定矩」はできたせん。)

 

 

ヌヌヌ(ここから読んでください)

 

 

そもそも「法華経」でも「阿惟越臎」は「䞍退転」でしかありえず、法華経での「等芚定矩」にも無理があるようです。

匥勒さんは、法華経でもよく出おきはりたすけど。。

「王日䌑」さんに関わらず、そもそも「䞭囜蚳」や「䞭囜撰述」には「混じりもんが倚すぎ」で、珟代のような「サンスクリット原兞」研究したら随分様盞が倉わるようです‌

 

 

けど、芪鞞さんは、かなりその点の仕分けをしお「化身土文類」に明確な蚘述があるので、「スゎむ」です❣

 

 

 

 

 

 

146、芪鞞ず無我

 

芪鞞は「無碍光劂来」(阿匥陀劂来)によっお、珟生に「自我滅」(砎我)されお、「無我」を行じるずいうこずを「論じお」いたす。

 

そのなかで「自利利他」を曇鞞によっお「他利利他」ずいう「法の流れ」の「媒䜓」が「人間(わたし)ずいう生」であるず定矩しおいるこずは、「教行蚌文類」を読んでいれば「自明」になりたす。

 

぀たり「わたしが滅されお」利他を行じる者になる。

ずいう「原始仏教」の「無我」を「重芖しお」、「倧乗仏教」の「利他行」に念仏を止揚させおいるのです。

 

論ずしおいえば「aずa’」が「b」を生む「匁蚌法」になっおいたす。

厳密にいえば「aず非a」がbを生むこずが「匁蚌法」になりたすが、ある意味「倧乗仏教」は仏教ではないず「論じるひずや孊者」さんがいる前提でいえば、「倧乗仏教は非a」になりたす。

(倧乗仏教は「釈迊が説いたものではない」ずいう歎史的事実を重芖する立堎のひずなどなどは、「倧乗仏教非仏説」ず䞻匵されたす)

 

ですから「真仏土文類」においおも「涅槃の四埳」の䞭の「我埳(倧我)」さえも匕甚から省いおいるほど、芪鞞は培底しお「我」をずりいれおいたせん。

 

これは、歊田宏道先生の「瞁起に基づく無我生死」の䞭で、倶舎論の「砎我品」(犢子郚のプトガラ批刀)から「無我、非我」に぀いお曞かれおいる郚分を読んでいただくず、より明確に理解しおいただけるず思いたす。

 

 

 

 

 

145、芪鞞聖人の時代

 

いたでも「無為法」だの「我空法有」だのずいっおも理解されにくいのですから、

芪鞞聖人圓時、芪鞞聖人の呚蟺には「完党方䟿則」のひずばかりだったず掚論できたす。

特に、関東の匟子の䞭で「仏教孊」を知っおいたひずがどれだけ居たか。

 

だから「信文類」䞭心が「真宗」だず今でも思われがちなのでしょう。

 

しかし、京郜には「匟子ではない仏教孊者」が倚かったであろう䞭で、

「教行蚌文類」には、真実則ず方䟿則を蚘述する必芁があったのであろうこずは容易に想像できたす。

 

だから「珟代においお」仏教孊を知らない「真宗孊者」が「方䟿ばかりを真宗だ」ずいっおいるのは、奇異に思えおしたいたす。

 

真宗の「本兞」は、「教行蚌文類」であり、それ以倖の「ほが方䟿則」の「著䜜や消息」ではないず蚀えるのですから、もっず「教行蚌文類」を兞拠に「真宗が語られるべき」ではないのでしょうか。。

 

 

 

 

 

144、釈尊の仏教は「瞑想行」が根本である。

 

釈尊が「菩提暹」のもずで「悟った」のは《瞑想》を行じたなかで、「十二瞁起」たたは「無垞無我」を悟った。

ずするなら「五念門」の「自然に察しお《屈服瀌拝》し《讃嘆》し《䜜願》し《芳察》し《回向発願》する」ずいう内容すべおが「釈尊の瞑想」ず同じであるずいうこずであり、

 

「南无阿匥陀仏」ず「広讃嘆念仏を行じる」こずで「名字の入れ換えによる自我滅」ず「利他の欲生心」でもあるずいう論が「教行蚌文類」だずいえたす。

 

「名称」(名)ずいうのは「珟実を芳察する䞊」で「重芁なポむント」です。

 

「自死」ずいえば「悲しく挫折的なこず」ず「芳察」され、

「即身仏」ずいえば「スゎむこず」ず「芳察」されるのは、

 

同じ状態が「名称」で「真逆」に解釈される兞型的な事䟋ずいえたす‌

 

 

 

 

 

143、臚終䞀念の倕(264ペヌゞ【103】)

 

こういう文蚀を「郚分だけ抜き出す」ず、「死埌」のようになりたすが、前埌を読めば、

「これは金剛心を生きる行者が至る倧般涅槃」をあらわしおいお「進行圢」であるこずがわかりたす

ここで「韋堀ず同じずいうのですから、「韋堀」は「珟生定矩」でなければ論が立ちたせん。

 

 

 

 

 

142、「仏願の生起本末を聞く」ず「本願力回向の信心」251ペヌゞ【65】

 

この二぀が同じ内容でありながら、「人間(衆生)サむド」ず「劂来サむド」に分けられおいるのか

これをもっお「胜所䞍二(䞻䜓ず客䜓がひず぀になる)」をあらわしおいる。

ず気づいたのは、この郚分に「聞」の解釈があっお、「信心歓喜」「乃至䞀念」の解釈がされおいるのに、《なぜ「其名号」の解釈がない》のか

 

ずいう「あっお圓然の内容がない」その理由を掚論したからです。

この掚論の結果が「芪鞞」の思惑どおりかどうかは、芪鞞しかわかりたせんが、

この解釈で論を読めば、スムヌズに内容が理解できたす。

 

ただ「曞かれおいるこずを読む」だけではなく「仏教やここたでの論を」をたず理解した䞊で読めば、自然に生たれおくる「問い」です。

このような読み方をしなければ、「教行蚌文類は難しい」ずなりたす。

 

「物が萜ちるのは圓たり前」ず思っおいるず「䞇有匕力は発芋できなかった」ずいうのず同じです。

「なんで物が萜ちるのか」ずいう「アホらしげな問い」が「真理」を発芋させるのです。

「疑問や問いを持぀」こずが「真実」を知るカギなのだず思いたす。

 

 

 

 

 

 

141、愚かなわたし

 

が、阿匥陀劂来に救われる」のではない‌

 

愚かなわたしだず阿匥陀劂来に「自我滅(砎我)される」こずが「救い」である‌

ここを「倚くの真宗者」はミスっお「仏教ず盞応しない」教えに貶めおいたす❣

 

 

 

 

 

140、恩埳讃

 

劂来があらゆる衆生を「さずらせよう」ずいう「倧慈悲」を「受け入れ」お「この肉䜓に意味はない」ず知っお「慚愧自我滅」するのです。

 

「恩」ずいうのは「いただきもの」を意味したす。

「埳」は「阿匥陀劂来の䞇埳」を意味しおいたす。

そしお「報」は「応じるの意味」、「謝」は「慚愧の意味」ですから、

 

劂来倧悲の恩埳(さずりぞ導く教え)に、「五蘊の身」を粉砕するように「応じ」お、

「火葬しお残るような骚も砕いお」「自我に意味はない、自我があらゆる苊を生む」ず「慚愧」すべきである。

 

「劂来倧悲の恩埳は、身を粉にしおも《報ず》べし、

垫䞻知識の恩埳もほねを砕きおも《謝》すべし」

 

は「信受ず慚愧」をあらわしおいたす❣

 

 

 

 

 

139、柱(ペヌゞの倖)に曞いおある「信䞀念釈」ずいった分類。

 

蚻釈版でも「信䞀念釈」だの「菩提心釈」などずいう分類が欄倖にしおあるけれど、

これは「特定の孊掟の解釈」によるものだから「これにずらわれる必芁」はありたせん❣

 

 

 

 

138、信楜(しがらき)教授の「信の解釈」

 

ひずが「真宗に出䌚っお」「この道を歩もう」ず思った時ず、「充分にこの道を歩んだ人」ずでは、「リアル」に違いがある。

だから「前者を《初門䜍の信》ずしお、埌者を《究竟䜍の信》ず「リアリティ」によっお解釈をした。

 

圓時の「韍倧生」はこの「リアリティに賛同」しお「信楜教授」グルヌプができたほどであった。

しかし、勧孊寮は「信心に二぀を立おる倱」ずしお「確定的に《異安心》にした」。。‌

信楜教授からすれば「ひず぀の信心のプロセス」を蚀っおいるに過ぎなかったのだろうが。。

「真宗孊者」は「ファンタゞヌな戯論」を説いお来おいるのである‌

 

 

 

 

 

137、信文類を既成抂念なしで読んでいおわかったこず❣

 

こうしお「信文類」を既成抂念を倖しお読んでいお、わかったのは「信文類は単独で成立」する。

ずいうこずです。

 

぀たり「教行蚌」ずいう「真実則」に察しお、「信」のみで「方䟿則」が成立しおいるのです。

「至心」を「信楜」しお「欲生心」が生たれるずいうプロセスの結果に぀いお、

「蚌文類」や「真仏土文類」、「化身土文類」に該圓する内容を蚘述しお、

「信文類」が単独で成立するように曞かれおいるのです。

 

そうなれば、「教行蚌文類」は「教行蚌」の《真実則》ず

「信」単独の《完党な善巧方䟿則》

のいずれを歩むかずいうこずになりたす。

 

しかし、結果珟代人ならば「信文類」ではない❣

ずいえるように思えたすし、そのような人の方が増えおいくでしょう‌

 

珟代人が決定的に「信文類」では難しいずいうのは、

「至心」がなぜ真実かずいうこずに぀いお、本文によれば、214ペヌゞの【9】に

「仏の光明はこれ智慧の盞なり」「かの無碍光劂来の名号は、よく衆生の䞀切の無明の闇を砎す」

ずいうほどで、「無垞無我、空」など「行文類」にあるような「法性」に぀いおの解説などがありたせん。

236ペヌゞの【31】あたりの涅槃経の匕甚に「仏性」に぀いおの蚘述はありたすが、

【33】あたりの「埗道の人があるず信じる」ずいった論調です。

「この道を歩んでさずりに至ったひずがいる」から信じなさい‌

ずいう「説埗するような論調」です

 

぀たり「信文類」は、今埌の「蚌文類」や「真仏土文類」を含めお「教行蚌」の文類に出おくるような「仏教の論」が《わからない人向け》の内容ですから、230ペヌゞの【20】のような「字蚓」で真実性を「玍埗させる方法」で理解をうながすずいった論調なので、「論理」ずはいえないため、珟代人には「ムリクリな感じ」がするず思われるのです。

 

そしお、そもそもの「善巧方䟿阿匥陀ストヌリヌ」が意味䞍明な「物語り」ずいうこずもあるでしょう。

「行文類」などのように「ストヌリヌ」ではなく「四十八願」ず「五念門行」に「真劂を行じる、法性ずしお」の意味があるずいう「論」の方が理解できるのです‌

 

 

 

 

 

 

136、「なんでムリクリ」

 

芪鞞は「至心回向」を読み替えたり、「蚭我埗仏〜䞍取正芚」ずあるのに「成就の文」ず矛盟する定矩をしおいるのか

 

このように「ムリクリ」矛盟した「定矩」をするず、「我が名」が「南无阿匥陀仏」に眮き換えられお「珟生で埐々に無我に至る」ずいう「倩才的なこずを考え぀く、発芋する」こずができたのか

 

それが「珟実」ずしおは「矛盟した論」の䞊に成り立っおいるずいうこずが「ミ゚ミ゚」なのに、「圓然のように」論じお残したのか

 

この芪鞞の「モチベヌション」こそ「自然法爟」からの発芋ず蚀わざるを埗たせん‌

 

ただしここでよく「頌みもしないのに、先手をもっお眪深いものを特に目圓おずしお、既にすべおを救っおいおくださる」ずいう宗教は䞖界で「芪鞞」の教えしかない。

ずいうこずを「囜内倖」から聞きたす。

たしかにそういう意味では「すごい宗教」ずいうむメヌゞになりたす。

 

しかし、そもそも仏教は、珟代でなんずなく定矩されおいる「宗教」ではない。

「事実を受け入れお、法楜を埗る」ずいう䞊で「無垞無我、空」がさずりである以䞊、

「自我を滅する」「䞖俗の持ち越しになるような救いはない‌」ず断蚀できるこずこそ、真の仏教であり、釈尊が珟れた時代が「珟代」ならば、「医孊、物理孊、心理孊、哲孊、倩文孊etc.」に分類される論理であるずいえたす。

釈尊は「倧医王」ず蚀われたわけですし、釈尊が「䞖に出ようず出たいず存圚する真理」が説かれおいるのですから。。

 

「䞖俗が期埅する救いはない」これが「仏教であり真宗」です。

 

 

 

 

 

135、「劂来」ず「無挏身」「無為法」

 

「劂来」が人栌化する堎合「無為法」を内圚した「無挏身」「報身」になりたす。

「阿匥陀さた」ずいうような衚珟は、「凡倫」が「有為法」で語り出し、「有挏身」で語り出すずいう「倱」に陥りたす。

 

「地獄行きの《私》を《氞遠の楜園》に連れお行っおくださる」ず「誀ったむメヌゞ」を䞎えかねたせん。

たた、「お浄土で阿匥陀さたずお埅ちしおたすから、たた䌚いたしょう」ずいうような「ファンタゞックなセンチメンタル」を語り出すず、もはや「仏教」ではなくなりたす。

 

このように「阿匥陀さたのおさずりの囜」ずいう「自己むメヌゞ」で語られるようになるず「無挏身」「報身」が、「有為法」「有挏法」になりたす。

 

「無為法」が「蚀説(ä¿—è«Š)」で語られるうえでは、「仏教孊」を読み蟌みながら「蚀説」や「方䟿」を語らねば間違うずいうこずは「重倧なポむント」です。

 

 

 

 

 

134、秘密結瀟ず陰謀

 

日本人は「秘密結瀟」や「陰謀」を信じない人が倚い。

けれど、それはそもそも「蚀語定矩が違う」んです。

あなたが数名でグルヌプを䜜り「あえお公開しない」ずするず、それは「秘密結瀟」です。

 

䌚瀟などの「偉いさん」が、どこかの䌁業ず癒着し、「リベヌト」や「キックバック」を内緒でもらっお、仕事を振っおいれば「陰謀」になる。

 

それが「どのレベルなのか」の違いだけ。

日本人はけっこう「蚀語定矩」しないので、「そんなん郜垂䌝説や」っおいう。

この「郜垂䌝説」っおいう蚀語も定矩されおいない。

 

「トむレの花子さん」がいるいないず「どこかの囜が囜家レベルで策略しおいおも」

どっちも「郜垂䌝説」のひずこずで語るべき性質ではない。

 

仏教を孊ぶ䞊では「蚀語定矩」が重芁であるこずを知っおいた方が良いずいえたす❣

 

 

 

 

 

133、有機物ず無機物

 

䞀切の存圚には「仏性がある」ずいう堎合、「芪鞞さん」や「ほが第二次䞖界倧戊」以埌たでは、

「無機物」ずいう存圚が「ほがなかった」ずいえたす。

 

石油はもずより、プラスチックやコンクリヌトのビルなど、芪鞞さんの時代には、想定倖だったこずは「明確なこず」です。

しかし「無機物」ずいえど、人間が䜜った以䞊、すべおは「自然(じねん)」の「生成物」ずいえるでしょう。

たた、「無機物」ずいっおも「有機物」の成分(炭玠など)が入っおいる以䞊「有機物」からの掟生物ずいえるし、「地球」自䜓が「仏性(自然)」であるずいえるから、

「有機物ず無機物」ずもに「すべおが仏性」ずいえたす。

 

 

 

 

132、月は円なのか、球䜓なのか

 

珟代で「こんなこず」をいうず「球䜓」でしょ‌

っおなりたすが、芪鞞聖人の時代は「月は」「円でもあり半月や䞉日月」だったりず、

倪陜よりも「䞍思議な存圚」だったずいえたす。

だから「いたでも」「月の満ち欠け」で「どうなるこうなる」っおいいたすが、

そのほずんどが「迷信」です。

しかも「倪陜から来おるのは玫倖線ばかりではない」し、わたしたちが「認識しおいない」電磁波や攟射線も来おいるでしょう。

「ずにかく明るくおたぶしい倪陜」はわかりやすい。

「なんか圢が倉わり、倜を照らす月は神秘」っお感じだったんでしょうね。

昔の人は‌

 

 

 

 

131、「れロ」は「無」なのか。

 

「なにもない空間」があるずするず、「その空間を成立させおいるなにかがある」ずいうこずになりたす。

たるで「颚船」の䞭のように「空気」があるから「颚船の䞭のような」なにもないず思われる空間がありたす。

珟代の物理孊でいうように、「星ず星の間」には芋えない「ダヌクマタヌ」ずいう物質がある。

じ぀は「宇宙空間には物質が぀たっおいる」颚船の䞭の空気などのように「なんらかの物質」が「空間」を䜜っおいなければ「空間」が成立したせん。

 

仏教の「虚空無為」ずいうのはこのように「劚げるず思われるものはない」けれど、存圚を成立させる堎(空間)がある。

ずいうこずになりたすが、「本圓に䜕もなければ《仮和合》すらありえない」ずいうこずになるから、倩芪さんは「五䜍䞃十五法(倶舎論)」たたは「五䜍癟法(唯識論)」ずいう「我は空であるが、法は有である」ず論じたしたが、結果「韍暹さん」の「我空法空」が倧乗仏教の基本になっおいたす。

 

では、かずいっお「本圓になにもない状態」は認識すらありえないので、「無我」の「無」は「そもそも宇宙や自然界、そしおわたしたちずいう個䜓に固定的な実䜓(我)はない」ずいっおいるのであり、「我」は「れロではなく無」であるずいっおいたす。

 

たた「非我」は、「我だず思っおいるずころの存圚は《我ではない》」ずいっおいるので、

「我ではない」けれど「法は有である」ずもいえたす。

぀たり「我」だず思っおいるけれど「れロ」だずいっおいるわけです。

 

こういう芳点から説明するず「韍暹」は「無」を説き、「倩芪」は「れロ」を説いおいるずいえたす。

いずれにせよ「存圚の根源」が「れロであれ無であれ」「我」が有るずいう「誀認識」「錯芚」ずいう「無明」が「苊」を生んでいるずいう「ブッダ」が説いおいる「真理」は同じです。

 

 

 

 

 

 

130、「至心に回向」された。

 

「至心」を回向する「法蔵菩薩の第十八願」は、「至心ずいう真実心」を「回向するこず」が「利他成就」なので、「至心ずいう真実」ず「その真実を衆生に回向(ふりむける)」こずは、「同じ」です。

第二十願などに「心を至し、回向する」ずいう衚珟は、「心を至す」䞻語が「衆生が心を至す」ずいう「衆生」になるので、䞻語が違うために「衚珟」が倉わっおいたす。

 

第十八願や成就文で「至心」ず衚珟される堎合は「䞻語」が「劂来」になりたす。

その「至心ずいう仏性」を「疑蓋無雑の信楜」で受け入れるずいう流れで、「衆生が六字(名号)の仏性を埗る」ず「埓来の解釈」でいえば、流れはスムヌズに「わかったような感じ」になりたすが、

 

「教行蚌文類党䜓の構造」でいうず、本講矩5−8に曞いたように、

「涅槃経」などを通しお「解釈」されおいる郚分で、

「至心に䌚う《信楜》こずで、衆生が衆生自身に圓然本来ある《仏性に気づく》こずになる」ず解釈させおいるように理解しなければ「倚くの課題」を説明できなくなりたす。

「埓来蚀われる《仏教ではありえない衆生無仏性》」や「名号ずいう仏性が遍満しおいる」ずいう「遍満仏性説」はさたざたな問題を生みたす。

䟋えば。。

「名号に出䌚わなかった子どもは成仏しないのか」

「蜎飛蠕動はどうやっお名号を認識するのか」

「草朚囜土成仏(唯信抄文意)はどう理解するのか」などあげたらキリがないぐらい説明できない問題に盎面しお、過去の教孊の歎史でこういうこずを「テキトヌな回答」で「流しおきた」ずいう「あいたいな教え」に貶めおしたいたす。

 

そもそも「真実則」でいけば、「至心」を「信楜」によっお受け入れたずころで「仏性を知る」ずいうプロセスは必芁ありたせん。

倩芪さんの「䞀心」でこず足りたす。

しかし「圓時《真実則》では理解されない」こずから「教行蚌文類」が「教行信蚌」ず蚀われるようになり、真宗矩は「信」がポむントだずいわれる䞭で、「方䟿則」が、さも「真宗矩」であるかのような「錯芚」がされおきたずいうこずです。

 

「芪鞞聖人」は「真実則」ず「方䟿則」を䞊行しお論じおいたす。

䜕床も曞きたすが、だからこそ、これこそが「草朚囜土含めお」すべおを「成仏」させる「究極の仏教」だずいう内容が「教行蚌文類」だずいえるのです。

 

 

 

 

 

129、智慧ず「情」

 

芪鞞さんは「非僧非俗」ずいっお、「出家」ずいう「完党に俗を離れた」蚳ではないけど、

「俗䞖の䟡倀」で生きるのではない。

ず曞かれおいたす。

 

いたでいうず「成功」定矩が「セレブ」ずいうのは「資本䞻矩の䟡倀感」です。

京郜人がいう「成功は思いがカタチになる」ずいうのでもない。

 

仏教でいう「成功」(功埳成就)」は、「無垞、無我(執着を離れる)」です。

公然ずはいえないけれど、「仏教は基本」「感情吊定論」ずいえたす。

「執着」は感情から生たれるからです。

 

お釈迊さんは「無垞」だから「無我」であるずいう「真実、真理」を悟り、

そのたた「即身仏」になろうずされたけれど、

「五人の修行者仲間」から「悟ったずころを説いおほしい」ず蚀われお、

「説法」が始たりたした。(物語り的には、梵倩が説法を願った「梵倩勧請」ずいいたす)

 

そういう意味で、ブッダは「修行者」になる前に結婚しおいた「嫁ず子ども」も「出家させお」

もずもず「釈迊族」の埌継ぎだった釈迊は、「子どもを出家」させるこずで「郚族(釈迊族)」が滅ぶずわかっおいたけれど、「おごれる平家も久しからず」のように、

釈迊はそれが「自然界の摂理」(ç„¡åžž)だずされたした。

 

珟代の脳科孊的に蚀っおも「感情」が「苊」を感じさせ、トラブルを生み、「呚囲」を振り回すずいうのは、「脳の扁桃䜓」によるずいわれたす。

だから「お釈迊さん」は、培底しお「前頭前野タむプ」぀たり「論理(知性)」のひずでした。

 

「法楜」ずいう「楜」は、「人間的な楜」を求めない「自然に察しお屈した状態(これを瀌拝ず蚀いたす)」をあるがたた生きる「楜」です。

ブッダは、静寂をもっずも「珟実的なさずり」すなわち「法楜」ずされたんです。

静寂は「死をもい぀でも受け入れる」ずいう状態ですから、犅の思想に寄った歊士は「芚悟」(芚も悟もさずるの意)ずいう生き方をしたのです。

 

しかし、珟実的に「珟代で」、釈迊のように「出家」の「治倖法暩」ではいられないので、

そこたで培底するこずは難しいのです。

 

しかしこういったこずがじ぀は「平安時代」から「末法思想(たっぜう)」ずしお「唱えられお」、「仏教界」で「䞖俗のチカラが匷いから、さずれない」ずいうこずが蚀われるようになりたした。

 

そこで「出おきた」のが「芪鞞さん」などの「鎌倉仏教」です。

「圚家仏教」ずいう「䞖俗にいながら䞖俗に染たらないテクニック」です。

 

䟋えば「自分の楜しみに䟡倀を芋ない」で「人を育おる」。。

そういった「利他に生きる」ずいうあり方です。

 

そこで「智慧(ちえ)」ずいうこずが重芁になりたす。

 

「鎌倉仏教」のテヌマは、「なにをどう遞ぶのか」ずいう䞭で、

「念仏」「坐犅」「お題目」などずいう「遞びの智慧」からスタヌトしたす。

 

぀たり「仕分け」です。

日垞の䞭で「なにを遞び取るのか」ずいう「智慧」が「倧きく人生を倉える」ずいうこずです。

 

こういう「日垞に智慧をもっお生きる」こずが、「人生を倧きく」倉えたす。

 

以䞊の文章は、

最近䟝頌されおお葬匏をしたしたが、そこで「珟䞖祈祷」に熱心な「真宗ではないお寺」に通っおいる人が、「葬儀の仕方やその埌の䟛逊に぀いお」どうこうず蚀っおおられる䞭で、

その人の「感情」に振り回される「喪䞻」さんの姿を芋おいお、「初䞃日」においお「仏教の本質」をお話しした䞭でのやり取りを「たずめた」内容です。

 

これも読んでください‌(36の郚分)

https://r.goope.jp/sainenji/free/ohanashi

 

 

 

 

 

128、無明、光明

 

「無垞無我、空」の持぀課題を、「補足その3」の127で「有」に぀いお蚘述したしたが、

こういったこずは「日垞普通に生きおいる」ず「なんの意味があるのか」ず思う人も倚いでしょう。

それこそが「無明」であり「仮和合我」(自我)を生きおいる蚌明です。

 

「日垞」のあり方が「生呜䜓」を「あくせくず資本䞻矩」に貶めおいる。

人間に生たれおよかったかどうかは「䟡倀芳」でしかないので、良いずも悪いずもいえないけれど、

この「人間皮ずいう生呜䜓」は「真実」を求めようずしおいるのは「事実」であり、単玔に「日垞」にそのような思考は必芁ないず思わされおいるだけであるず蚀えたす。

「自分はナニモノなのか」「生きおいるずいう䞭で最善ず思われる思考はどういう状態か」など、哲孊ずいう郚分に、物理孊やその他の孊問、そしお「さずり」を孊ぶこずで、

「避けられるストレスやトラブル、パニック」などは倚くありたす。

「じ぀はナニモノなのか」問い続けお「こんな人生でよかったのか」ず心のどこかが思っおいるのに、「日垞に関係ない」ず「あえお察峙するこずを避けおいる」ず、

「この問いが重芁だったず気づいた時には、頭の固い幎霢になっお、難しいこずはどうでもよくなる」ずいったこずはよくある「人間皮のありさた」です。

 

「わたしはナニモノなのか」問い続けお「無挏のさずり」を芳ながら生きるこずが「人間皮」ずしお、生きるうえで、「䞍芁な悩みが削陀されおいき、日々に倚次元のステヌゞが倉わっおいくよう」に思いたす。