沿革

■ 「松山尚武館」の建設

昭和23年 伊田栄三郎氏によって、東松山市箭弓町1丁目に「松山尚武館」が建設される。比企郡各地から剣道愛好者が集い、戦後の剣道復興に寄与した。のちに、昭和47年「青少年研修道場明徳館」に名称変更した。

■ 比企郡撓(しない)競技連盟を発足

昭和24年 松山尚武館に集う郡内の剣士が中心となり、伊田栄三郎氏を会長に発足した。

■ 松山地区剣道連盟の発足

昭和27年10月 「埼玉県剣道・撓競技連盟」の発足とともに伊田栄三郎氏と戸根川孝一氏を理事として選出した。

昭和28年12月 比企郡撓競技連盟は、「松山地区剣道連盟」として再編される。会長には、松山町長(現東松山市)田中実氏が就任した。

■ 松山地区剣道大会の開催

昭和26年5月 箭弓神社境内にて剣道・撓競技大会として第1回大会が開催される。以来毎年4月下旬~5月上旬の牡丹祭にあわせ、境内拝殿南の広場で実施された。その後、参加者の増加に伴い、市内小学校、市民体育館、大東文大学体育館、吉見町民体育館へと会場を変更し、会場確保の難しさから日程を4月29日に固定して現在に至っている。令和2年度は、70回記念大会として県内西部地区を中心に小学生、中学生、高校生の計1000人余りが参加される予定であったが、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点からやむなく中止となった。中止は、東日本大震災の影響で第61回大会(平成23年4月)に加え、コロナ禍の影響で、第70回大会、第71回大会、第72回大会と3年連続中止となった。令和5年度は3大会ぶりに規模を縮小して第73回大会が開催される。

■ 箭弓神社への奉納(額及び石碑)

昭和35年5月 郡内の指導者であった大塚奓恵八、吉野常利、原 巌、関根泰治、小林三吉、藤崎栄春の各先生の遺徳を偲び、さらに復興をみた剣道の隆盛を祈願し、額を奉納した。趣旨に賛同した324名の剣士の名が綴られ、上部には木太刀1組が掲げられている。(奉納演武 日本剣道形 打太刀 富田林治先生、仕太刀 中村尊輝先生)

平成12月10月22日 剣道大会50回記念に際し、先人の遺徳を偲び、益々の剣道の隆盛を祈願し、石碑を奉納した。石碑には、「一剣以興國(いっけんをもってくにをおこす)」と刻まれ、自身の剣道修練は、やがては、国を支える力となって世界平和のために尽くしてほしいという願いが込められている。(奉納演武 日本剣道形 打太刀  根岸一雄先生、仕太刀 松尾國博先生)なお、除幕式並びに奉納演武の様子は、明徳館HPのアーカイブス第3弾にて動画配信しております。

■ 歴代会長

初代 伊田栄三郎  (昭和24年度~昭和27年度)4年

二代 田中  実  (昭和28年度~昭和32年度)5年

三代 中里 勇吉  (昭和33年度~昭和43年度)11年

四代 伊田勘三郎  (昭和44年度~昭和61年度)18年

五代 伊田登喜三郎 (昭和62年度~平成23年度)25年

六代 大木 千秋  (平成24年度~平成29年度)6年

七代 栁  克実  (平成30年度~令和3年度)4年

八代 伊田雄二郎  (令和4年度~     ) 

■歴代事務局長

初代 奥泉 勝三

二代 岡野 正次

三代 江野祐太郎

四代 石井 武史

五代 長峰 一雄 (平成13年4月~令和4年3月)20年

六代 片岡 信行 (令和4年4月~      )