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講師紹介

礒崎 真帆

  • 国立音楽大学 教育音楽学科類卒業。
  • 大学時代より指導を始め、横浜市内の中学校にて勤務後、ブライダルプレーヤーとしてホテルにて電子オルガンで5年間演奏活動。
  • 1989年よりピアノ教室を主催。
  • 指導歴30年以上
  • PTNA会員。
  • グレンツェンピアノコンクール指導者賞
  • ブルグミュラーコンクール指導者賞
  • ピティナ指導者賞
  • ヨーロッパ国際ピアノコンクール特別優秀指導者賞 

 

 

私は、横浜生まれ横浜で育ちました。親戚もほとんど横浜で子供の頃は夏休みに帰省している友達が羨ましくてなりませんでした。両親は遊園地よりはハイキングや海に連れて行ってくれましたが当時は 「遊園地に行きたい」と何度も言っていました。家族でよく大山や金時山に登って頂上でおにぎりを食べたりきゅうりにマヨネーズをつけて食べたこと、それはまた格段のおいしさで 嬉しかったのですが なぜ 遊園地には連れて行ってくれないのだろう、そんなに贅沢もできないからだろうと考えていました。

当時は不満に思っていたのに、自分が子育てしているとやはり 海や山に連れて行くことが多く やはり子供の頃の体験は体や心に残っているものなのだなと感じています。そして自分自身も今 自然の中に身を置いていたいと常に思っていて近場では三浦方面によく行きますし八ヶ岳や蓼科なども大好きな場所です。

 

ピアノは5歳から始めました。母は本当は当時は珍しかったギターを習わせたいと思ったそうですが!? 母の友人でお姉様が音大をでている方がピアノを勧めたそうです。母は「続くかわからないから」と言ったそうですが その方が「やらせてみなきゃわからないじゃない?」と言われて、それもそうかと、近所の先生にお願いしに行ったそうです。当時は今と違って電子ピアノなどもちろんなく 中古のアップライトもなかったため新品のピアノを用意してくれました。父の当時のお給料から考えたら相当な投資と冒険だったことは間違い無いです。

新品のピアノが家に到着した時の喜びとなぜか気恥ずかしさはこの歳になっても覚えています。真っ黒なピカピカのピアノがものすごく大きく見えました。

こうして私はレッスンを始めることになったわけですが、ご近所の先生が芸大出身の当時70過ぎたものすごく厳しい方でそれはそれは怖かったです。ちょっとでも間違えると突き飛ばされ、手を叩かれました。今では問題になると思いますが当時はそれが当たり前?だったようです。母も先生の前ではとても緊張している様子でした。

家ではうるさかった三つ下の弟も先生のレッスン中は微動だにしなかったのを覚えています。ものすごい威厳でした。でも必ず帰る時は笑顔で握手をしてくださる。そしてなぜか私はどんなに怖くてもその先生が好きでした。なぜか?それは子供心に 先生の愛情を感じていたからです。それはとても不思議な感覚でした。

レッスンに行く時は怖くて足が震えていました。でも、先生が好き。可愛がってくださるから。体の反応と反比例な心を今でも覚えています。

ですから子供達はきっと私の心がわかっているといつも思っています。愛情を持ってレッスンしているのか?それが私自身の課題です。子供達は直感でわかるのだと思います。

両親は音楽的知識は皆無でした。父は猫踏んじゃったのワンフレーズだけ。母は人差し指で「日の丸」 白地に赤くーーまでしか弾けないという環境で ピアノに関しては親に聞くという選択肢はなく自力でやるしかありませんでした。それがかえって良かったのかもしれません。母が先生に恐る恐る「私はピアノが全くわからないのですが、、」と申し出ると先生は「知らなくてよろしい!!なまじ知っているとろくなことがないです!!」とおっしゃてビクッとしたと 何度も話していました。

そんなこんなで小学校の時はその厳しい先生でした。練習はしていくものの正直練習が嫌で嫌で、、、。しょっちゅう 母に促され仕方なく練習、、。でもなぜか 辞めようとは思ったことがなかったです。なぜか??当時の気持ちはよく思い出せません。

中学に入り 先生を代わりました。2番目の先生はバッハを沢山練習させる方で またこれが嫌で嫌で(笑)。今はバロック大好きでしたが ただ弾かされているだけだったので(分析も何もなく)弾きにくいし訳わからないしで、とにかくこの教本さえ終わればバッハが終わると思って必死に練習していき やっと良かった!!一冊終わったと思うと先生は 「じゃあこれを買ってきなさい」でガックリ、、。それの繰り返しでバッハは一体どれだけ作曲したのだ!!と泣きそうになるのでした。ですから私はレッスンする時に バロックは楽しいと言うことをわかってもらえるようにと、工夫しています。それには分析する力が必要ですから楽典も大事だと思っています。

 

中学3年の時に進路を決めなくてはならず 私は能力あるなしに関係なく何が好きかと考えると 体育、美術、音楽 でしたのでよく考えて音楽にしました。

音大を出てから公立中学で音楽を教えていましたが当時は校内暴力と学校内での自殺がマスコミの毎日の話題の時代でした。土日祝日も部活で出勤で若かったから倒れませんでしたが、相当ハードな毎日でした。失敗もたくさんしましたし、自分の力のなさに落胆していました。でもその時の経験がのちに、男の子二人を育てる時やピアノで生徒さんと接する時に役に立っています。また、ピアノ個人レッスンだけでなく グループでみんなで行うレッスンの計画を立てたり実践することが好きなのはその頃の経験からくるのかもしれません。

結婚して次男が生まれた2ヶ月後に父が事故で頚椎損傷で四肢麻痺になり その後しばらくして母が癌になり両親の通院入院、父の介護施設への入所や転院など28年間 育児と仕事と両親の世話の生活を続けました。今は両親共に亡くなりましたがピアノが弾けることで父に施設で演歌や唱歌を弾いて一緒に歌うこともできました。

人生で一番 ピアノが弾けて良かったと思ったことは、母の最期の時です。

母は、癌で緩和ケア病棟にいました。痛みを抑えるためにモルヒネを強くしていったのでもうベッドで横たわることしかできない母。何も食べることもできず、起き上がることももちろん 声も出せない、手のマッサージもしたし髪もドライシャンプーもした、もう何もしてあげられることがなかったその時、病棟のロビーにピアノがあったことを思い出し 看護師さんにお願いしてベッドをピアノのそばに移動してもらいました。母が好きだった曲を何曲か弾いた時に

手でOKとサインしてくれたのをみて、涙が止まらなくなりました。が、その涙は見せないように 窓から海が見えましたので窓の外を見ながら必死に弾きました。考えてみたら、ずっとピアノをやってくることを一番応援してくれた母にためにピアノを弾いたことがなかったのです。母に申し訳ないという気持ちでいっぱいになると同時にピアノを習わせてくれた両親に心から感謝しました。

 

また、コロナ前に生徒さんと一緒に介護施設で演奏や歌のボランティアをたまに行い、認知症で言葉が出なかった方が涙を流して感情を出されスタッフの方が驚いていたこと(その方は小学校の先生をされていたそうで、子供たちの歌声を聴いて思い出されたのかもしれません)や母との経験を通して、いつか、いつの日か 教室に通ってくれた生徒さんが「ピアノが弾けてよかった、音楽をやっていてよかった」と思ってもらえるようにと願ってレッスンしています。

 

 

 

月 仁美先生*佐知子先生

木 直美先生

土 リトミック:ゆりの先生