第 2章 「やってみたけどうまくいかない」人へ

2 想念観察は「反省すること」ではない

 

初めの頃にはまりがちな点は、想念観察を

 

・ 想念 特に不快な想念 を出ないようにするための訓練

 

・ 善人になるための吉行と誤解することです。

 

 

 

 

想念観察を始めると、むしろ不快な想念が噴出してきます。

 

実際は今まで見えていなかったもの、埋もれていたものが浮かび上がってきただけなのですが、これを押さえつけると逆効果になり、ますます苦しくなります。

 

 

かといって止めてしまえばあなたは現状のままです。残念ですが、他に解決の方法はありません。

この本を手にとった以上、前進あるのみです!

 

 

想念観察とは、どんな想念であっても、自由に素通りさせる方法です。

 

しかし慣れないうちは、想念観察を「反省」行為と勘違いしてしまいます。

 

他人をさげすむ、罵倒する、暴力を振るう、といった想念を今までたれ流しにしていたことに気付くようになったとすると、「いつもいつもこんなことを考えているなんて、自分はなんという最低の人間なんだ」と自分を責めてしまいがちです。

 

このはまりこみも、ある意味で必要なステップなのです。

 

多くの人が心の底で「善人でありたい」という願望を持っています。

 

しかし何かを善とか悪とかふるい分けしている基準は、人それぞれ通います。

 

年配の人に席を譲ったら、「年寄り扱いするな」と怒られて、むっとした経験があると思います。

よかれと思ってやった行為が、相手にとっては悪の場合もあります。

 

 

ある宗教団体が犯罪行為に手を染めていたことが明るみに出たとします。

 

社会通念から見るとそれは悪ですが、大衆の宗教離れを促進したという意味では善かもしれません。

 

もともと善も悪もありません。それぞれ波の方と他方にすぎません。

 

善と悪の両極を越えた広い視野でものを観る目を養うと、物事の本質が見えるようになります。

 

善人であろうとすればするほど、バランス上、悪の要素を引き付けるわけです。

そんな堂々巡りはもう卒業しよう、というのがこの本のテーマでもあります。

 

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