地域の紹介
三寶大荒神(西浦の荒神さん)
熊本市貢町の西浦地区にあることから「西浦の荒神さん」として広く知られ、県内各地や福岡、大分など県外からも多くの参拝者が訪れています。
もともと熊本城内にあった荒神様を祀った祠(ほこら)を18世紀の中ごろ、瑞巌寺の北東、つまり鬼門に当たる現在地に移設したのがはじまりといわれています。当時の瑞巌寺には殿様が狩りなどで訪れる際の休憩所「お茶屋」がありました。
三宝荒神という神様は仏教の守り神といわれ、平安時代に修験道から広まったといわれています。また中国では古くから竃(かまど)の神様として祀られていました。現在でも荒神様の信仰は近畿地方や九州、なかでも熊本、大分、福岡で広く浸透しています。
西浦の荒神さんにお参りされる方は、工事をしたり、引越しをしたりする時に安全祈願をされる方が多いということですが、家内安全や健康や交通安全など様々なお願い事をされています。
幹囲13.5m、樹高約29m、枝張りは東西47m、南北49m、南西方向に伸びる枝が最も長く中心から29mもある。樹根は蛸の足のように地上に這いまわり、樹勢も盛んである。クスノキの多い熊本県下でも最大級の巨木である。
樹の南側の幹に墓石らしいものが1基まきこまれている。これが鹿子木寂心の墓と伝えられるもので、樹の呼称もこれに由来する。鹿子木寂心は、名は親員、三河守と称し、入道して厳松軒寂心と号した。旧北部町の楠原城に本拠をおき、飽田、託磨、山本、玉名郡内の560町を領したという。
後に隈本城(古城、現在の第一高校の場所)を築き、そこを本拠とした。
明治10年(1877)の西南戦争では、田原坂の激戦等が有名であるが、最前線と熊本城の中間に位置する旧北部町内も重要な地点であった。
この地で戦闘が交えられたのは、向坂における2月22日と3月20日の2回がある。戦闘期間中、町内では254戸の家と204の小屋が焼かれ、戦いにまきこまれて死傷した人も有り、民間の損害も少なくなかった。主に3月20日の向坂の戦いの戦死者の墓である。
将兵軍夫123柱の墓石が並ぶ。墓石は北を正面とし、頭のとがった四角柱で、その総高は士官124cm、下士官87cm、兵卆70cm、軍夫40.5cmを測る。
『江戸時代の商家の木造建築』
この建物は、江戸時代後期の文化6年(1809)に建てられたといわれています。建物の内部は、大名などの休憩の際に使われた、御成の間・次の間・御用人の間などの部分と、店・茶の間・中の間などの商家としての部分とに分かれていて、現存する江戸時代の建物として他に余り例のない貴重なものです。
高い木組みの吹き抜け天井、年を経て、つやびかりする見事な大黒柱、用材、それに施した家運繁盛の打出の小槌などの木象眼、藩公を迎え入れた御成の間など、一歩建物の中に入ると現代人が忘れ去った、日本古来の木造建築の良さが目を引きます。
『参勤交代の道』
豊前街道は、肥後藩・薩摩藩等が参勤交代のとき利用した道で、熊本札の辻を起点として、新町一丁目御門~二の丸御門~筑後・筑前~豊前小倉に通じており、豊前街道・薩摩街道・日向街道と並ぶ肥後の国における重要な「街道」でした。
細川・島津などの大名はここを参勤交代などの休憩所(御小休)として使用しました。
薩摩藩主・島津斉彬公のお供をして、西郷隆盛も立ち寄ったといわれています。
6世紀後半ごろ作られた直径18m、高さ6mほどの円墳です。
南側に開口する長さ約9.6mの横穴式石室が埋葬の場所で、玄室側の壁の下方1.8mほどに赤色、上部は白色の顔料が塗られています。
また、赤、青、白の三色で「同心円文」「三角文」「重列三角文」「双脚輪状文」と呼ばれる文様が描かれた部分があり、全国的にも貴重な装飾古墳です。