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2019-02-02 10:09:00

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  ―「OM―2」 の新作Opus No.10 の上演に寄せて―

 

いつも自分が本当に生きているのかどうかを確かめるために、あなたはこれを見に行かなければならない。 原田広美(舞踊評論家、心理療法家)

 

 

 

 「OM-2」と言う劇団名は、これまで知らない人にはよく分からないだろう。私が彼らの舞台を知ったのは、2001年。すでに心身の病と密接な匂いを発散させていた『K氏の痙攣2』を横浜の大きな会場と、OM-2主宰者の真壁茂夫が経営する「神楽坂die pratze」で見た。その時には、すでに劇団名は「OM-2」であったが、1987年の旗揚時には、「黄色舞伎團2」(読み方:おうしょくまいぎだん・ツー)だったのだ。それで「おうしょく」の「O」と、「まいぎだん」の「M」で、「OM」となったとされているが、果たして本当なのだろうか。

 

 

 

私が疑念を抱いたのは、真壁が主宰していた劇場、今はなき「神楽坂die pratze」と「麻布die pratze』で、2001年に行われた「21世紀舞踏典」なども見ながら仕上げた『舞踏大全~暗黒と光の王国』(現代書館)を刊行後、レクチャーやダンス・フェスティバルの取材で、ウィーンに行ってからだ。ウィーンは、パリと競り合うような中欧の京で、東欧からの闇も含んだ、面白い場所である。絵画では、1900年前後からアカデミーから飛び出して分離派を結成したクリムト、シーレ、ココシュカなどが名高い。そしてフロイトの『夢判断』の刊行も、1900年。またジョン・ケージが、師と仰いだ12音階・無調派で、現代音楽の祖であるシェーンベルクも、ウィーンで生まれた。

 

 

 

そして第二次世界大戦後を見ると、1960年代の早い時期からヘルマン・ニッチュのウィーン・アクショニズムがある。それは、当時国際的に広がったアクション・ペインティングにとどまらず、動物の血などを用いた黒魔術的な儀式などのパフォーマンスへと、発展を見せた運動だった。それらはモーツァルト、ベートーベン。シュトラウスなどと共に、ウィーンの人々の自慢だが、ヘルマン・ニッチュの劇団は「OMシアター」ではないか。もともとは「黄色舞伎團」だとは言え、なぜそれに2がついていたのか? 大いに、怪しい。

 

 

 

 またウィーンで得たオーストリアの友人によれば、die pratzeというのは、何か凶暴な?動物の手である、と言う。ただし、「OM-2」の主宰者の真壁によれば、die pratzeは「僕たちにとっては、別の方の意味。不器用な手という意味で使っています」という返事がいつも返って来る。ニッチュの「血ノリ」と、2000年代以降、黒子から稽古の場で即興的に変容し、それを真壁が受け入れ、その後は劇団の中心的な俳優になった佐々木敦が心身の奥底から噴出させる、トラウマによって抑圧されていた感情を吐き出し、叩きつけるような場面で見られる「血ノリ」の一致も、偶然なんだということになる。だって、「黄色舞伎団2」の始まりは、俳優たちが「檻」の中から、観客に「視線」を向ける(見つめる)劇だったのだから。そこには感情や血ノリの放出などなかった。

 

 

 

 だが、そこには俳優たちと観客達の間に、何が起きるか分からない、という点では「冒険的で危険」とも言える「即興」的な要素が、すでにあった。ダンスの話になるが、ポスト・モダン・ダンスの母と言われるアンナ・ハルプリンも、1950年代に始めた静かな「即興」から、しだいに激しい感情が湧き出ることに悩んだ。だが、それはシェーンベルクなどと同様、ユダヤ人であったために、大戦を機に、ドイツからアメリカに逃れざるを得なかったフリッツ・パールズが創始した、「ゲシュタルト療法」のワークをパールズからダンサー一同で、数年かけて学ぶうちに、感情を扱えることが彼女の特技の一つになったような所がある。

 

 

 

1960年代の公民権運動が絶頂だった時代にハルプリンが行った、白人と黒人をまじえた「アメリカ合衆国の儀式」というワークショップ。そして1980年代以降のエイズや癌患者と健常者で行った「サークル・オブ・ジ・アース」というワークショップ。それらの中で、参加者達から噴き出す感情を扱うことができたのは、ハルプリンが表現者(ダンサー)でありながら、そのようなセラピーの文脈をも、押さえていたためであると思われる。

 

 

 

 私は、たまたまパールズの末裔でもあり、ゲシュタルト・セラピーも扱うセラピスト(心理療法家)なのだが、「OM-2」の、特に佐々木敦の演技は、その手のセラピーのワークと酷似している。時には過食気味の佐々木が、冷蔵庫を床にたたきつけて感情を心身から爆発させ、雑誌を引きちぎり、そして「お母さん、僕の人生がこうなったのは、もはやあなたのせいではなく、僕のせいだけれども、でもお母さん・・」と叫んだりしたこともあった。冷蔵庫や雑誌を用いた演技は、2001年の「いつか死んでゆくであろうすべてのものたちへ」であった。

 

 

 

 真壁は、人間の「核」という言葉を大事にしている。「核」に吹き荒れる感情~〈それは固まっている人もいれば、抑圧されている人も、逆に希薄な人もいる。なぜなら「防衛」の形は、人によって、すべて違うから〉~の表出こそが、演劇の中心であってもいい、という考えを持っているようだ。兄が、見染めた女性との結婚を親から拒まれた時の、断末魔の苦しみの叫び、それを聞いた真壁は「そういうものが自分にとっての本物の演劇でありたい」と思った瞬間があったものらしい。

 

 

 

 今回の新作『Opus No.10』(作品、No.10)の予告宣伝映像では、私が「OM-2」の劇のタイトルで一番好きな、2001年の「いつか死んでゆくであろうすべてのものたちへ」の前半の、「いつか死んでゆく」と言う言葉がリピードされていた。また、これも私が大好きだった2006年の『作品No.4-リビング―』の、生きるという言葉も押し出されていた。「生きると死ぬ」は、人間にとっての不変である。ハルプリンの「サークル・オブ・ジ・アース」のワークショップでも、最終日には、目撃者と名づけられた観客達の前を、参加者の一人一人が「I want to live!」と叫びながら、走る。

 

 

 

ただし、それらと同様に「人間の生きる根拠」に食い込みながらも、けっして個人の内面の感傷に終わらないのが「OM-2」である。私達は、地球の中で、社会の中で、人類の歴史の中で生きているのだから。現在は、冷戦後の時代だが、予告宣伝映像には、大戦の記憶、原爆投下の衝撃、ヒロヒトの肉声、老齢化社会、核の問題なども取り込まれているように思われる。また知らないうちにできてしまった「人間を囲う檻を破ろう」とする、一人一人の中から放出される衝撃もドラムに叩きつけられて・・。ヒロヒトの肉声は、2012年に、何と「真壁茂夫×韓国人俳優」で上演した『一方向』で登場したものだった。それを韓国人俳優達とのコラボレーションで用いたとは、何という「冒険」であったか。私の観劇史に大きな衝撃を残した。

 

 

 

最後に、「OM-2」の芝居は、真壁の台本から生まれるものではない、ということを述べておかねばならないだろう。それは、いつも「共同創造」で創られるのだ。これまでには、3日3晩も、話し合いが続いたこともあった、と聞く。創作の過程が、「即興」なのである。今こう書いて、思い出したのが、ドイツ表現主義舞踊の末裔だったピナ・バウシュの創作法である。俳優達の一人一人の「核」から生み出されるものを結集し、あれやこれやとやりながら、「OM-2」の舞台は創作されてゆく。だから、どうなるのか、文字通り分からない。この人間の「核」に問う「生の創作」に、あなたは耐えられるのか。いつも自分が本当に生きているのかどうかを確かめるために、あなたはこれを見に行かなければならない。

 

 

 

*原田広美(舞踊評論家、心理療法家)

 

 著書に『漱石の〈夢とトラウマ〉』新曜社、『舞踏大全~暗黒と光の王国』『国際コンテンポラリー・ダンス』現代書館、他。心理療法「まどか研究所」主宰。5月の連休後の週末に、表現者のための創作の核を見つけるワークショップを企画中。