Tel / 03-3469-0511

ザ・スズナリ

2019-01-29 21:24:00

2016年9月15日(木)~17日(土)@日暮里SUNNY HALL

 

「前衛劇であること/ないこと」

西堂行人(演劇評論家)

 

 om2_2.jpg

 

OM-2の舞台『9/NINE』を観て、2つのことを思った。1つは「この舞台は前衛を希求している」、もう一つは「前衛であることの危うさの際にある」ということだ。

  本紙はもともと「身近な前衛」を探るのがメインテーマで創刊された。だから、OM-2の舞台を「前衛」という言葉で語るのは、屋上屋を重ねるようなものだ。が、このターミノロジーは評者一人ひとりによって異なるので、各々が再定義してからでなければ、うっかり使えない。実際、前号を読んでみても捉え方は千差万別で、どんな舞台を観ているかによっても大きな隔たりがあるし、何を観たいかで、その人の「前衛」観も違ってくる。せめて何か共通項があればいいのだが、それもはなはだ疑わしい。

  そこでわたしなりに「前衛」を(再)定義してみるならば、身体性を根底に置き、現行の価値観や制度的なイメージに対して批判的であること、これを最少限の前提としておく。ただしその行為を認定する観客や批評がなければ、舞台=行為は容易に消費されていくから、「共犯者としての観客=批評」の存在もこれに加えていい。つまり「前衛」とは本質的に議論を巻き起こすことなのだ。

  『9/NINE』は、プロローグと本舞台で上演される本編の9つのシーンで構成されている。舞台となったのは老人施設あるいは精神病院。そこで生活している父とその家族の関係が描かれる。

  OM-2の舞台としては珍しく、劇の設定が明確で、時折会話も交わされる。家族という枠組みも今までになかったもので、家族に見守られながら、時には鬱陶しがられる初老の父の存在が中心に置かれる。元セールスマンの彼は、いまだ矜恃をもって生きているのだが、次第に死を身近に感じながら徐々に死を受け容れていく。最後は、首吊り自殺の暗示によって幕が下りる。だが問題は物語の再現でも高齢化社会への薀蓄でもない。

  わたしがこの舞台を観て、もっとも重要だと思ったのは、家族の物語を借景にしたストーリーを傍目に観ながら、集団で演奏するシーンや、タップを踏んだり、集団で太鼓を連打するシーンだった。この劇が動き出すのは、中盤の「タップ」のシーン⑤からである。机を叩いて音を出し、体をクラップしながら音楽に転化していくのを眺めながら、それが表現の方法であることをはっきり認識するのは、ここら辺りからだ。その認識が明確になった時、観客の観る目が変わってくる。

  見るべきものは、すべて身体に即した音であり、在りものとしての身体だ。それが舞台上で集団の独自の演技に昇華させようとする時、個人でなく集団である根拠が浮かび上がってくる。なぜ独自の方法=演技の文体を持たねばならないのか。

  ありていに言ってしまえば、制度や消費に回収されないためである。見慣れた演劇から離れ、観客に驚きや違和を与える。そのためには、従来の文法を批判し、集団的独自性、演技の文体を持たなくてはならない。それが現在の日本社会の中で、演劇を通して生きていく理由と根拠である。演劇は決して世間と無縁に成立しているわけではない。その逆に、消費社会に飲みこまれないように、身体を駆使して生きている。その最前線にいるのが俳優であり、彼らを根拠づけているのが、演劇集団なのである。

  だが同時に、そこでは「見せ物」として技芸が問われるという局面も生じてくる。技芸への評価はともすれば、資本主義的商品化への一歩である。習熟度を増せばますほど、エンターテインメントへ傾斜するだろう。

  技芸に昇華され、芸術的な価値が付与されればされるほど、商品化に回収されていく。OM-2の舞台は、それでも洗練を免れられない。アヴァンギャルドはそのことへの抵抗なのだが、それすらも飲み込んでしまうシステムの強靭さの前でどこまで逃走できるか。「際にいる」と冒頭で述べたのは、そうした局面にOM-2が立たされているからである。