病院のロゴについて(酢壺と龍)

当院のロゴは久米田池の伝説にちなんで「龍」と「壺」をモチーフにしています。

八木地区で育った方であれば中学校で習う久米田池の「乙御前(おとごぜ)伝説」「酢壺池伝説」

私の両親も祖父母も代々中学校で習う有名な伝説ですが、ご存じでしょうか。

久米田池は奈良時代に行基(弘法大師)が聖武天皇の命を受けて橘の諸兄とともに当時最新の土木技術の粋を集めて完成させた人工池です。

もともと雨が非常に少なく干ばつに苦しんでいたこの土地を千年以上にわたり潤してきた命の池。その池を守るために作られたのが久米田寺と言われています。

水をいただき命をつないできた八木地区がだんじり祭りで久米田寺に宮入するのはそのためです。

乙御前(おとごぜ)は私たちが習ったときは親しみをこめて「おとよさん」と習いました。

おとよさんは久米田池の土木工事で働く男性たちに食事の世話をする働き者。みなのアイドルでありましたが一人の若者と恋に落ちます。しかし彼は工事中の事故で亡くなります。悲しみにくれつつも彼女は仕事に邁進します。その後無事に久米田池は完成し、その時にはおとよさんは当時の結婚適齢期を大幅に過ぎ20歳を超えていました。行基はその年まで独身で働いたおとよさんに感謝し、褒美をやると言いました。しかし彼女は「褒美なんていらないからずっと久米田池と共に」と言い、龍となり久米田池に飛び込みます(大蛇ともいわれていますが)。その後久米田池のヌシとなったと。

だからくめだ池のヌシは女性なんですよ。伝説を聞いた当時の私は、奈良時代の結婚適齢期が15歳と知り衝撃を受けたことを覚えています。口承のため学術的に違うところがあってもご容赦ください。ご興味があればぜひ調べてみてください。

酢壺池伝説は、正直なそうべえと言う若者が通りがかりの男性に久米田池へ使いを頼まれます。

「この手紙を久米田池までもっていってほしい。池についたら手を3回たたけば女性が出るから手紙を渡せ」と。歩いていたら坊さんに声をかけられます。「死相が出てるがどうしたんや」話を聞いた坊さんはその手紙を開封しました。手紙は白紙で何も書いていないように見えましたが坊さんは「この手紙には、この男はうまそうだから食え、と書いてある。ワシが書き換えたるわ」と言い、カボチャのへたをボキととってなにやらスラスラ書きました。そうべえはその手紙をもって久米田池に行くと目もくらむような美しい女性が出てきて手紙を渡すと中の御殿に案内され接待を受けます。3日が過ぎ、そうべえは帰ると告げると乙御前は「無限に酢が出てくるツボ」をくれます。「蓋を開けるな。中を絶対にみてはいけない」と言われてそうべえは帰宅します。

村に帰ると30年がたっており知っている人はいなくなっていました。しかしそうべえは酢を売ることで大儲けします。(伝説の真偽は別として泉州地域が酢の名産地であったことは事実のようです。)その後行き倒れの女を助けその女性と結婚し子供をもうけます。しあわせな時間をすごすそうべえ。

ふと酢壺の中をのぞいてしまいました。中には白い蛇が一匹。とつぜんその白蛇が妻であるはずの女性に変化します。「もう一緒にはいられない」。その後女性は子を残して消え、酢壺は酢が出なくなりました。嘆き悲しんだそうべえの涙で池ができ、そこに酢が枯れたツボを捨てます。その池を「すつぼ池」と呼ぶようになったと。

私たちはすっぽん池と呼んでいました。きっと「すつぼ池」がなまったのでしょう。

浦島伝説とも重なる部分があり興味深い伝承ではありませんか?