伊豆山神社とは

鎮座地

境内

熱海市伊豆山708番地1。
熱海駅の東北約1.5キロ。

境内は古来歌枕に名高い伊豆の雄山、古々比杜(子恋の杜)の一部で四万坪、海抜百七十米。伊豆の海、相模灘を一望の中に収め、遠くは御神火なびく大島が夢の様に浮かび、近くは初島が手に取るように眺められる景勝の地を占め、四季折々に御山を埋める彩る万樹百花に、渡り群れくる小鳥の鳴く音に心も洗われるばかりです。

 

御祭神

正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、拷幡千千姫尊、瓊瓊杵尊

例祭日

四月十五日

由緒

境内

当社は古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。

御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残されておりませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝えられております。

社伝によると当社は当初は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に御鎮座になりました。十六代仁徳天皇が勅願所となされてより、二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられております。大正三年一月十三日、皇太子であられた昭和天皇後参拝の砌り、親しく若松一株御手植を賜わりました。今、社頭左側に亭々と聳えております。

大正七年に宮内省から基本財産の一部にと、金参万円の御下賜をいただき、又、昭和三年秩父宮家をはじめ、高松、久邇、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の御寄進をいただき、又、昭和五十五年九月十二日に皇太子浩宮徳仁親王殿下の御参拝をいただいております。

平冶の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで 驚く当社を崇敬し、箱根とともに二所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に鎌倉、室町期を通じて、

 一、武州  吉田三ヶ村 野中村
 一、相州  柳下郷 小田原寺家方金目庄
 一、上州  渕名庄半分
 一、豆州  丹那郷 田代郷 大田家村 春木村 蛭島郷 白浜郷
 初島領家職 熱海松輪村東湯屋 山木郷 山上郷
 平井薬師堂 馬宮庄領家職 仁科庄内田鼻 松下田鼻
 一、駿州  富士村寺 聖一色 伊賀留美
 一、越州  国分寺

上の如くに社勢頗る盛え、多数の社領を各地に所有していたことが南北朝時代の文章「寺領知行地注文」に記されておりますが、 その所領範囲の広大であったことは実に驚くべきもので、当社の最隆昌期における状況を示しております。

戦国時代には、小田原の北条氏(北条早雲、北条氏綱、北条氏康)により厚く庇護されていましたが、そのために豊臣秀吉の小田原征伐で一山残らず焼打ちにあい、焼失してしまいました。

徳川の治下に及んで、焼失した伊豆大権現は再建復興され、文禄三年伊豆国葛見郡のうち二百石を寄進し、次で慶長十四年関ヶ原の合戦で大勝を収めたお礼として更に百石、併せて三百石の朱印領を寄進して 崇敬の誠を至し、歴代の将軍も又これに傚い、明治維新に際して国に上地いたしました。

昭和三年昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格仰出され、官社として御神威いよいよ高くいましたが、終戦後神社制度も廃されて宗教法人として新に発足し、今日に至っております。

猶当社は明治以前においては、久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ、弘法大師、富士開山の僧である末代上人など多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して、 修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰に成る粱塵秘抄に「四方の霊験者は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸穏、駿河の富士山、 伯耆の大山。」と著され、東国、東海における第一の霊場として聞こえていたことがしられます。