✴️関西風仏教解説《真如論華厳涅槃経》教行証文類を読むために重要🌇💖

そもそも教行証文類を読むために重要な「仏教の基本(大原則)」を別枠で解説してます❣️

 

なお、

☆☆☆「ブッダ」って書いてる部分は、原始経典のみを「仏の説いたものとしない」で、「苦、無常、無我」(三法印)を説いているものや、研究の結果「より釈迦に近いと思われる教え」は、釈迦であれ誰であれ「ブッダ」に定義するからなんです。☆

☆そうじゃなければ、大乗仏教なんて成り立ちまへんし、第1結集や中国で翻訳された時点で「なに経」であっても「なんらかの意図が入り込んでいる可能性」はあるから「釈迦そのもの」ではなくなります☆☆☆

 

既存の「仏教学」の学習の流れではなく、現代人にわかるような書き方をゆったりと気楽に読んでもらえるように、微妙に関西風にさせてもらいますね!

🙆‍♂️推薦します!(中古しかないかも、Amazonにあります。)

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🔴教行証文類講義その2

https://r.goope.jp/sainenji/free/kyougyou2

⚪️補足その2

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku2

 

 

ーーーーーーー

◯本覚と始覚

そもそも大乗仏教は、インドのバラモン教のブラフマンとアートマンの思考構造を踏襲していて、

「存在は真如(ブラフマン)と定義されるところから個体(アートマン)が生まれている」という内容が多く、

「基体から個体が生まれる」と錯覚する論調が随所にあります。

 

ですから、このように大乗仏教は「本来みなさとりであるという本覚思想だ」といわれてきたのです。

しかし、25年ほど前でしょうか、駒沢大学の教授が「本覚思想は仏教ではない」

 

「仏教の縁起論は、本来「存在を論じる」ものではない。人間が十二縁起の流れの通り。。

 

人間は「迷いのもの」として生まれ、

そのながれの元にある「”無明”の滅によって”迷いの滅”、つまりは悟りに至る」ということを説いているのだ。(冒頭の写真の紹介本)

と論じて、このような「始覚」の教えが仏教である。

と定義されています。

 

そこでその教授は、縁起説は「十二縁起」のみがブッダのいいたかったことであって、

存在に関する縁起思想、例えば「真如縁起、如来蔵縁起、法界縁起など」は、

ブッダの教えではない」とも論じられました。

 

確かこのご指摘通りだと思います!

 

しかし、大乗仏教が大乗仏教である理由がそこにあります。

「本覚なのに無明の中で迷っている」から《無碍光の教え》によって、

「《無明の滅から生老死の滅(迷いの滅)に至り》本覚にかえる」という流れに意味があります。

つまり「本覚を始覚でさとる」ということです。

 

それこそ大乗である理由です。

本覚思想を基底にして「そもそもこの迷いの問題は、わたし個人の問題ではない」

「存在すべての問題である」と定義し、

「わたしが成仏の歩みを生きる中で、《存在すべてが仏性》であると認識定義されていく」

ことで「すべてが成仏する」のです。

 

本覚思想の中で始覚を課題として生きる。

この状況には「ブラフマンもアートマンも」ありません。

すべてが「無常無我、空性」だと「実相の智慧を得る」ことなのです。

 

涅槃経に「悟りは一切は如来我」と知るから”大我”をいきるといえる」という意味内容があります。

しかし、親鸞聖人はその経典を重視しつつも、教行証文類の真仏土文類では、その「大我」の部分だけすっとばして、その前後の部分を引用しています。

親鸞聖人は、かなり慎重に「我」ということを取り扱っています。

 

仏教の縁起論の本質は、14の通りです‼️

 

 

14、縁起論について!

 

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ここの資料では「縁起論についてかなり限定していますが、

「法界縁起」もとらえかたは、ここに書かれている原則に基づかないと「dhatu−vada」になってしまいます。

親鸞の真如論は「dhatu−vada」ではない前提で「法界縁起」を理解してはります!

 

 

 

 

 

13、真如から如来するって?

 

12に書きましたけど、私たちの実相以外に「真如」っていう世界があるわけじゃないんです!

せやから、「無常無我」「十二縁起」を「ブッダが智慧によって悟った」けど、

それをどう「わかってもらおうか」ってことで、「いろんなことを対機説法した」んですけど、

 

「あくまでも《有為法》と《無為法》は別物ではない」っていう”ありのまま”原則は変えていません!

だから、「真如と無碍光如来」は同じ原則ですが、「無碍光如来」は「真如の言語化」でしかないんです。

 

もっと現実的にいえば、「ブッダが無碍光如来という言語で、私を《無常無我》に誘導してる。」ってことです!

 

けど、「無碍光如来とか実相をこういう風に観たら悟りが見えますよ」っていう「功徳荘厳」を、「五念門行」で生きれば、「自我」状態が変化して、「無我」になりますねんっていうことで、

 

現実以外に「仏の世界」っていうのんがあるってことやないんです!

 

せやし、それは「自我名字」を「仏名字」に入れかえて「五念門行」を生きて、

「現実」に「荘厳功徳」を重ねて観て、現実の定義を「真実功徳の荘厳だ」って定義し直しながら日々を生きること!

 

唯識論でいえば、事象を「功徳荘厳」だと認識して「心のタネの状態」を変えることです!

 

これを「究極のストーリー」にしたのが「阿弥陀ストーリー」だってことですねん。。

 

 

 

 

 

 

12、真如の誤解

 

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真如といえば「縁起と空」にあるように写真の上「dhatu−vada」をイメージしはる人も多いようですが、30年近く前に読んだこの本にあるんですが、

「dhatu−vada」だと仏教ではなく、ブラフマンとアートマンの関係になりますって書いてますねん!

 

これらの本は、サンスクリット原典などに基づいたかなり正確な内容です!

反対派(論というより情から)、もありましたけど、単純に妬みなどで「認めたくない」って人たちも多かったようですねんけど。。

 

真如っていうなら。。

 

下にあるように、dharma(ダンマ)の変化ですねん!

「状態の変化」ってことですねんけど、この変化そのことを「真如」「無常無我」っていいます!

 

そういうことで、「真如や如来」を《迷いの私の現生とは別もの》って考えると仏教から離れますねん!

「仏教と相応」しまへん!

 

 

 

 

 

11、称名念仏と唱題で「勘違い」すること。

 

法華経のあったらいいのにってとこに、唱題について書いてますが、

じゃあ唱題できない人は成仏できないのん?

称名念仏も称名できない、または信心のない人は成仏できないの?

 

どっちにも、こういう疑問がもたれます!

これを「勘違い」って書きましてん!

 

そもそもすべて「空」であり、「認識のなすこと」なんやったら、

「現生での状況」をどう捉えるかってことで、

 

教行証文類やと、自己以外をどないに見るかってことやし、

すべてを仏の化身って見ていい。。

 

あの阿闍世も権化の仁(ごんけのにん)って、自己をさとりに誘引する「仏の化身」扱いですねんし。。

 

唱題ではどう考えるか知らへんけど。。

 

せやし、自己が成仏に向かう道を行くのに、10に書いたようなことがあると

現実理解がしやすいってだけなんで、成仏に向かうのは、あくまでも「自己」やねんし、

自己以外は、すべて「仏、如来」って見てもいいってことですねん!

 

浄土の荘厳の鳥も「変化身」やって書いてありますしねぇ❣️

 

それが「無常無我空、唯識、華厳、涅槃」を基本にした理由でっしゃろね!

そんな風に「荘厳功徳を見るためには、10がテクとしては《現実的や》ってこと」

以上でも以下でもありませんねん!!

 

 

 

 

 

10、法華経にあるけど、真宗にあったらいいのにっていうポイント❣️

 

①十界互具

十界互具(じっかいごぐ)っていうんは、

 

法華経に示された万人成仏の原理をいいますねん!

 

地獄界から仏界までの十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)

っていうところを生きてる、各界の衆生の生命には、

 

次に現れる十界が因としてそなわっていることっていうことで、死後の輪廻の話し前提みたいですねんけど、「私らの日々の生活のなかで起こっている心理状態」でもありますねん!

 

私ら「人」(倶舎論頌)は、「思慮分別する特性がある」っていわれてますねんけど、

 

たいがい「思慮分別」して、

「腹立てて(修羅)、愚痴いうて(畜生)、むさぼって(餓鬼)」っていう「牢獄に繋がれたような苦(地獄)」

に転がりますねんね!

 

まぁよくって「自己満(天)」でっしゃろ、

 

そっから「声聞(教えを聞いて悟ろうとする)」「縁覚(独覚ともいうて、師を持たずに十二縁起などで悟ろうとする)」「菩薩(自利と利他を行じる)」「仏(利他円満)」までは、普通に生きてたんでは、まぁないでしょ!

 

この十界の各界には、十界互具っていうて、九界と仏界の断絶がなくなって、それぞれの「界」にそれぞれが「互いにそなわってる」っていう原理があるから、あらゆる衆生が直ちに仏界を開くことが可能であるっていいますねん。

 

この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立したんですって。。

 

めんどくさそうな内容ですねんけど、ようは、

 

仏が地獄の者の気持ちがわかるから「地獄(とそれ以外)ってどういう者がどういう心理状態で堕ちていくのんかわかるから救える」ってことやし、

(堕ちるは、「はまり込む」っていうことを意味してます。)

 

地獄(など)の者も、「なんで自分がこんな風に苦しんでるのんかわかる可能性がある」し、いい方向に向かう可能性があるってことで。。

 

それぞれにそれぞれの要素があるから「すべてに成仏の可能性がありまんねん」って教えてますねん!

 

 

②十如是

十如是(じゅうにょぜ)ってのは、『法華経』方便品に説かれる因果律で、意外と《実用性》のあるものの見方(観察テクニック)ですわ。

この「十」ってのは、

  • 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等
  • (そう・しょう・たい・りき・さ・いん・えん・か・ほう・ほんまつくきょうとう)

っていうて、

こういう角度からものごとを見たら、ものごとの本質がわかりまっせ!

っていう智慧を生むテクニックですねん!

ものごとの、相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)

を見たら、諸法の実相っていう、存在の真実の在り方がわかりやすうなりますねん。

わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている10の種類の存在の仕方、方法をいう。

如是ってのは、是(かく)の如(ごと)し(そのようである、という意)のことですやん。。

 

これって結構いけてて、日常の出来事や人間関係をこういう視点で見たら、分析しやすくって、

「智慧」になりまっせ!

こういうポイントは「浄土教」やと「四十八願」とか「荘厳功徳」に「内在」しますねんけど、

現代やし、こういう「論理」で理解する方がはっきりしますやろ!!

 

 

③一念三千っていう道理

「一念」っていうのんは、どの宗派でもよ〜出てくる言い方ですねんけど

ここでは、凡夫・衆生が日常におこす瞬間的な心(念)の状態に含まれる

っていうことですねんけど、

 

なにが「含まれるんか」って。。

「三千」ですねんけど、これは「三千大千世界」とは違いますねん。。

 

ほんで、ここでは、普通に「日々の何気ない色んな一念」の中にってことで、

そこに、十界って①の(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)のことですねんけど、、

その、「ひとつひとつに他の九界が含まれている」っていうのを「十界互具(じっかいごぐ)」っていうのんは①の通りですねん。。

こっから、「十界」に十界があるから「百界」、その百界にそれぞれ「十如是」があるから「千如是」になって、

千如是が「五蘊(ごうん)世界」「仮名(けみょう、衆生とも)世間」「国土(こくど)世間」の《三種世間》の各々にあるから「三千世間」になりますねん。

つまり十界×十界×十如是×三世間=三千になりますねんけど、

これも微妙にめんどくさい「理屈」でっしゃろ。。

 

結局のところ、

「あなたの日常のいろんな一念には、十界と十如是と三種世間があるから、そこを見て論理的に判断して行動したら、真楽になれまっせ」ってことやって、

日常にある「いろんな出来事を論理的に観察(分析観察)するテクニック」っていえますねん!!

 

今、これを読んでいるあなたの心の《無意識の瞬間瞬間》に「あなたの周囲」と「あなた自身の中にある状態」やて思ったらよろしいんです❣️

 

こういうことを日蓮さんは、南無妙法蓮華経の一念にこの「三千」が含まれるし、「唱題成仏」するっていうてて、「戦後の新宗教」がこの原理を取り入れたんで、「知識層」に訴えたんですねん。。

もともとこれは、天台宗でいうてたことなんで、親鸞さんも知ってたはずやし、「仏の荘厳功徳を見る」ってところに、これを、含めたんやと思いますねん!!

 

④諸法実相

実相 (じっそう、tattrasya lakSaNam、तत्त्रस्य लक्षणम् (sanskrit))の「実」とは虚妄(うそ偽り、間違った見方)に対していう真実っていう意味やし、教行証文類でもよ〜出現してます。

相は「無相」ってことで、「私らが見てる現実はほぼ確定的に虚構やし、《空》でっせってことです。

「実相」ていうのんは、こんな風に「真実は無相」であるということですねん!

これを「諸法実相」っていう言い方がよ〜使われます!

「無相」は、人間の言葉をはなれ、心でもなかなかわからへんってことですねん。

「実相」は、こんな感じで「真実が無相」やってことが「萬物の本来の相(すがた)」やっていうてるんです。

「実相」を「萬物の本体など」といって、現象の背後に「現象生起の源としての何か実在的なもの」があるってことやなしに、あくまでも「無常無我空」原則でおます。。

「量子や素粒子」かて「不確定な存在」ですねん。

唯識論でいえば、「すべては認識」やし、「認識が無くなれば《無か空》」ですねんから。。

実相はけっして実在的実体ではない。

ってのがポイントですねん。

この意味で、この「実相」を法性、真如如実などと言い換えてますけど、

  • 法性〈ほっしょう〉は、サンスクリット語の「ダルマター」(dharmataa)で、法そのもの、法としてあらわれている萬物の本性の意味。
  • 真如〈しんにょ〉は、「タタァター」(tathataa)で、真実であり如常ってことで、「ありのままの状態」。
  • 如実〈にょじつ〉は「ブフータ・タタァター」(bhuuta-tathataa)で、存在のありのままのすがた。

 

この実相は、仏陀悟りの内容そのものやし、

「一実、一如、一相、無相、法身、法性、法位、涅槃、無為、真諦、真性、実諦、実際」などいろんな言いかたをあちこちでしてますねん。。

せやし、ややこいんです。。

まぁいろんないい方をしてる理由はありますねんけど。。

たとえば、小乗仏教では我空の涅槃を実相といい、大乗仏教では我空法空の涅槃を実相といったりする。

摩訶般若波羅蜜経』では如・法性・實際、『法華経 』では実相、『華厳経 』では法界、『楞伽経 』では如来蔵、『涅槃経 』では仏性などといわれますねん!(Wiki由来)

 

☆虚空(これは直接「法華経」ってことやないんですけど、よく聞かれるんで書いときます!)

虚空(こくう)ってのは、

(Wiki由来) 

 

 

 

9、0(ゼロ)は有るか?

 

むかしの日本には「0」がなかったのんで、生まれてすぐ「1才」でしてん!

これが「行年や享年」に使われてます。

厳密には「数え」ではおまへん。「数え年」ってのは1月1日で繰り上がりますし、1才の期間が人によって変わりますねん。。

今のような形式のカレンダーがなかった時代の話です。。

☆陰暦やと、中国なんかでは、今でも旧正月で繰り上がるんで、人によって1才の期間のズレがあるんで、ややこいです。。

 

ゼロってのは、インド人が発見しはりましてんけど、「0」は「無」やおまへん。

「無」からは「ー10」とかって出てきいひんのんです。。

 

「0」があって「ー10」がありまんねん!

借金っていうのんは、「ー1」っていう数字になりまっしゃろ。。

(上手に資産にすれば「+1」か、それ以上になりますねんけど)

 

とりあえず「お金ないし貸して。。」って銀行に行っても、「返してもらえそうか?」「担保があるか?」っていう要素がないと貸してくれまへん!

 

この「要素」が「0」ですから、「無」の人には貸してもらえまへん。。

 

せやし、「空」ってのは、「0」に近い概念って言えまっしゃろね。。

「縁起」っていう側面がおますし。。

そうなると「無我」っていうてんのは、「我空」ってのんと違いまんね!

 

でも、そもそも「0」がない時代の話ですし、「0」の概念でもう少し深く考えて言うたら、

「無常」って言う状態(真理)がある。

「無我」って言う我空(真理)がある。

って言うのんを「0」やっていえば、「無常無我」が「0」って言う存在やし、

「空」「真如」やっていうて、

縁起って言う現象がありまんねん!

 

そもそも「量子」って言う《存在の最小物(単位)》は、「無」から生まれたっていわれてますねんけど、

ほな「0」やない「完全無」から生まれるってありえるん?

 

これは、別次元(パラレルワールド)からきたかも?

って言うたら、別次元があるってことになりますねん。。

 

まぁ借金のたとえで言うたら、「ある人」って言う次元には「お金がない」けど、

「銀行」って次元のところにはある。

けど、「銀行」がどう判断するかで「ある人」に「お金が移動する」って言う風に考えると。。

 

「ある人」という次元に「お金が移動する確率」は、「ある人」の状態によるってことになりますねん!

 

「ある人」という次元に「0」っていう「お金を生むそもそも《生命体》があって、お金を生む《能力・担保なんか》があったら」、銀行からお金が移動する確率は上がります!

 

そもそも「居ない人」を「偽装」したり、「居てて」も「能力や担保なんか」がないって時は、

お金が移動する確率は下がります!

 

けど、「完全無」から「量子」が生まれたっていう、そもそも「0」なのか、「無」なのか。。

 

「不確定要素(変数)が多すぎて」「確定できひん」っていうのんが「事実」なんで、

「私」っていう「不確定な変数」は、どっちにしろ「無」か「0」でしかおまへん!

 

こういうのんを「空性」っていうて、こんな風に「銀行」とかに喩えるんを「俗諦」っていうてます。

 

なんか知らん生命体がありそうだっていう「事実、現象」を「自我」という「認識」が「存在として私が有る」って勘違いして生きてる。(無常無我、空、唯識)

 

こういう「無知、無明(むみょう)」が「苦の根源」でっせって「仏教」はいうてますねん!

 

せやから、「真楽」になりたかったら、「この根源」を「智慧」にして、「正しく現象の流れを見て(観察とか三昧とかして)生きること」で「真楽」になれますねん❣️

 

って「仏陀(ブッダ)」はいうてて、

 

「私」ってのは、そういう「不確定(変数)」状態でっせ!

ってことを「無常無我」「空」「法界縁起」とかいろんな「俗諦」や「方便」で教えてますねん。。

 

そういうたら、結局「0」と「無」は違うっていうのんも「俗諦」でしかおまへん!

現象とか状態を説明するために、あえて言い分けるっていう「説明言語」でしかおまへんねん。

 

あなたが「1才」からスタートしてても、「0才」からスタートしてても、どうでもええ!

「俗世間の決め事」でしかおまへん。

「真理から言うたら《不確定》な《無常無我》やってことは《確定》してる事実」ですねんから。。

 

 

 

 

8、俗諦と方便は同じで違う!

 

Aは、教行証文類を解説するのに、真宗でいろんな使い方をしてる「真俗二諦」について、

 

「真諦」は、色も形も言葉もない真如(つまり無常とか無我とか縁起っていう真理・法則性)。。

「俗諦」は、その「真諦を一般的な言葉にして表現すること」。。

 

って、使い方してます!

 

ほんでもって「言葉というよりストーリー(物語り)」にしたのんを

「方便」っていうて書いてますねんけど、これは「仏教学」やったら普通の使い方ですねん!

 

もちろん厳密に広い意味でいうたら、どっちも「俗諦」とも「方便」とも言えますねんけど。。

 

☆☆☆ 小学校1年ぐらいで、

 

りんごが🍎🍎🍎🍎🍎あって、”ジョーン(イマドキなんで)さん”に2つあげました。

いくつ残っているでしょう?

 

なんて習いますけど。。

 

こんなんを「方便」って言いますねん!

 

これを、X+Y=Zっていう状態があって、Y=7としたらXとZには、何が入るでしょう?

X=3 , Z=10とかって、いう抽象的な概念や言葉つこうていうのんを「俗諦」っていうてるようなもんですねん!

 

 

 

7、えーかげんホンマのこといわな。。

 

「煩悩の滅と入滅」って。。

 

仏教の多くの解説には「入滅っていうのは、煩悩が滅することです」って書いてますねんけんど、

「煩悩が滅したら、そもそもの私も滅しますよね!」

 

せやのに。。

そこは、なんとなく「社会的に受け入れられへんかも。。」って思ってる人や「そんなん仏教が自滅させるようなことをいうわけないやん」って、

 

マジ「仏教の真実をわかってない人」か、わかってて「方便をいうてるひと」かどっちかのひとがいうてることですねん!

 

せやし、経典を解釈するときに「煩悩が滅して、如来になるんでっせ」っていうてるけど、

「如来は真如→無常無我空性」ですねんから、「私が如来になる」っていうてる時点で、「私はもう居りません」ってことでっせ!!

 

「Aの経験」から言うたら、「個人的に《ほんとうのこと》を知りたい人」に、

このことをいって、「納得しいひんかった人」はいてまへん!!

 

わかってて「私の煩悩が滅して仏や如来になる」なんていうて、なんとなくぼやかすのんをやめて、

「私は無常無我で、空の原子状態に戻りまんねん」って、

 

曇鸞さんも「浄土教の根本真実」でいうてる「生即無生(しょうそくむしょう)の理論」(行文類にも引用)の方向から話した方が、現代の現代人には「よーわかって」もらえますねん。。

もちろんこの「生即無生」だけやおまへん。。

 

教行証文類のあちこちに、こういう「根本真実」は書いてありますねん❣️

 

現代のなかで《現代人感覚で生きてるひと》には、この「ホンマのこと」を伝える方が、

「ほやねんねぇ」「わかりますわ❣️」ってなりますねん!!

 

「ほな、今から《南无阿弥陀仏(帰命尽十方無碍光如来)に自我の主体を変えて》生きる方が真楽で、《広う深う》ものごとが見えまんなぁ」

「ほんで、ど〜でもええことで悩んだり、ケンカしやんでもよろしいわなぁ」ってなりまんねん!!

究極たとえば「戦争」でも起こって「滅してもしゃーない」って思えまんねん。

 

もちろんそういう事態を避けるためにも、「仏の智慧慈悲」が広まって、

「自我の滅」を「《今、現生》に生きるひと」が増えていくように。。

「争うこと侵略すること」を「愚かなこと」って思って生きるひとが増えるように。。

 

「親鸞さんが、教行証文類のラストで上皇を批難することを書いた」

《法の真実と俗社会に向けての真実》を書いてるっていうのんは、チョー重要ポイントちゃいますか?

 

せやから「真実の布教」って《超重要なことですねん》って、「A」はいうてまわってますねん!(平和ボケ社会やし、なかなか理解されへんのんですけど、「A」の生命体は、なんかあきらめまへんねぇ)

 

東南アジア仏教国「スリランカのジャヤワルダナ大統領」が、第二次世界大戦のあとの《サンフランシスコ講和条約》の時に、

(引用)

ジャヤワルダナ代表は、日本に対する賠償請求権を放棄する、と続け、その理由として、

仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛(智慧慈悲)によってのみ消え去るものである」を引いた。

https://www.mag2.com/p/news/181484

 

ジャヤワルダナの演説が終わると、賞賛の声の嵐で会場の窓のガラスが割れるほどであったと『サンフランシスコ・ニュース』は報じている。また『サンフランシスコ・エグザミナー』紙は「褐色のハンサムな外交官が、セイロン島よりやって来て、世に忘れ去られようとしていた国家間の礼節と寛容を声高く説き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」と評した。

(以上引用)

なんていうこともあって、

マジ近年でも「仏教が社会に大きい影響を与えてきた」っていう事実がおますねん!

 

もうえーかげん「方便」で《ごまかす》のんをやめやんとあかん時代やって、

布教者もわからなあきまへんわ!

 

大乗仏教の経典や論書、ほんで親鸞さん自身は「あの時代にもうわかってはった」から、

「真実と方便」を混在させて、

「危険思想」にならんように工夫してはりますねん。。

 

けど、「危険思想」ってことやないんです。

「事実」ですねん。

このことを受け入れて「南无阿弥陀仏」に名字を入れ換えて、「主客」を《変換して》生きる方が、

 

「お互い一如やっていうて」「マジマジ和合」できて「真楽」「真実」っていう

「現実」を生きていけますねん❣️

 

あるひとが「仏と凡夫の主客が顚倒(てんどう→ひっくり返る)しないように生きてます」っていうてはりましてんけど、マジこういう方とはフラット(平等関係)で理解しあって「和合」できますねん!

 

せやし、「そういう仏道をホンマに歩んでる人と話してて、仏の智慧目線でやりとりしてたら」

お互いに、

「上下関係や強い弱いを超えて、フラットな関係で生きられるようになって、こういうことが仏智でんなぁ」っていう「関係性」が「歓喜地」っていうええ感じの喜びになりまんねん!

 

これってマジマジ立証できるっていうか、「A」はそういう経験をいろいろしてて「これって立証されるんやねぇ」って、「讃嘆(さんだん)してます」ねん。。

 

もうえーかげん「ホンマのこと」が《必要》になってるってわかって布教しやなあきまへん!

もちろん「この相手さんは方便寄りやないとあかんやんねぇ」っていう判断は大事ですねんけど。。

 

マジ「危険思想」って受け取りそうなひとには「方便寄り」で話さなシャーないですけんど。。

「今や、これからの時代を作るのんは《真実を求めて彷徨っている人》ですねん」から「真実寄り」こそ重要でっせ❣️

 

いろんな社会問題にとりくむのんでも、「俗世間に真実がない」「ただこれ仏のみ真実」すらおまへんっていう状態は、避けやな、どないもなりまへん!!

そら仏教界が「方便だらけの状態」やし「まず社会から不要って切り捨てられるのんが《お寺》ってなる」のんはトーゼンですわ。。

 

「古いっておもてた《お寺》に《真実があった》」ってなったら、「じつはお寺って《最新必要な場》」やってなりますやろ。

 

「いのちの基本、本質」を《方便にもならん教えにおとしめて》たんでは、

そもそも《資本主義の苦》すらどないもなりまへんし、《僧侶やニセモノの仏教者個人の独善(ドグマ)》から脱皮できひんから、「誰も救われまへん」。。。

 

この「真実を抜いて」えーかっこして「社会問題取り組んでますアピール」してても、

それぞれの分野に「専門家」がいてますねんから、「時代におもねってる感満載」ってなりますねん。

それやったら、それぞれの「専門家」に「仏教の真実」を伝える方が有効ですねん!

 

「それぞれの社会問題専門家から学ぶ」なんていう以前に、「専門家にも仏教の真実を伝えて和合して取り組む」っていうほうが、効率的で「真実が広まること」になりまっしゃろ!

 

「A」がいろんな世界に《クビつっこむ》のんも、このことが広まるようにって、

「自然」が「法爾」にさせてるってことやって思ってますねん。。

 

「真実はどこにあるの?」って彷徨ってる(さまよってる)ひとは、よーけいてまっせ❣️

 

 

 

 

 

 

 

6、「さとり」という言葉をもてあそぶ。。

 

ちょっと前に読んでた本について思い出したんで書いときます。

これは論理学の本ですけど、ほぼ平均的な一般人よりも仏教を理解している論理学者が書いてますねんけど、

 

仏教っていうのんは、「さとり」という「ありもしない状態をめざそう」として、

「さとり」っていう言葉を「もてあそんでいる集団」であるって書いてましてん!

 

せやね。。

「仏の世界は仏にしかわからん」って平気でいうてて、「なにをめざしてんねん」って感じの話が多い。

Wikiを見てても、やはりわかってない人が書いてると思われる部分が思った以上に多いし。。

 

「さとり」っていうのんを、今「5」のところに定義しときましたけど、

「真の楽」「苦の解決」に定義しなあかんのんです。

 

現実的に、真如、無常、無我、空、唯識、だのなんだのって、

「なんのためにこんなことを言ってるの?」

 

引力だろうが、量子力学だろうが、相対性理論だろうが、使えなければ現実世界に意味を持たないけど。。

 

わかってる人は、それを元になにかを生み出しまっしゃろ!

いまだに私はよ〜わからんのんが、なんでこんなコンピュータってのんが「ゼロと1」でいろんなことを計算してるんかってこと。。

「ONとOFF」だけでなんでこんなにいろんなことができるんかって。。

 

なんとなくコンピュータ言語になれば、論理はわからんでもないけど。。

根本がわからへん!!

 

まだ「量子コンピュータ」の方が理屈はわかるけんど。。

とにかく「さとりやの浄土や」のいうても結論「だから。。?」ってとこ!!

 

「真の楽、苦の根本解決」

ここを示さなければ、「使いもんにならんお遊び」になってまいますねん。

少なくとも、論理学者さんにこんなんいわれても反論できませんやろ❣️

 

「ゼロと1」が並べてあっても、どないな風に計算して、どないにもってったら、

どうなりますのん?

 

ここを使いこなすんが、「プロの役割でっしゃろ?」「違いまっか?」って、

突っ込まれて、「仏じゃないからわかりません」っていうたら、

たぶん「使えんなぁ。。」ってなりまへんか?

 

クスリを処方すんのに

「化学式もようわからんし、神経学も、生理学も解剖学も病理学も難しいでんなぁ」

「まぁ説明書に”頭痛に効く”って書いとるから出しときましょ」っていう医者がいたら、

「ほな、まかしまっさ!」って言えます?

 

仏教ってのんは「苦の根本解決」ですねんから、やっぱ悩んでるひとや社会的役割としてなんて。。

あえて「大義名分」いらんでしょ!

 

なんかしなあかんって。。

普通のことちゃいますか?

って論理学者が私に語りかけてきましてんっていう。

 

まぁ「如来の功徳荘厳がわたしという生命体Aに語りかけてました」っていうご報告まで。

 

 

 

 

 

5、教行証文類に華厳経と涅槃経が居てる!!

 

この2つの経典はよ〜出てきます!

まずは「華厳経」ですねんけど、

 

このお経はブッダのいうてることの「究極がきっちり書かれている」って言われてて、

「悟り」っていうことばで言うたら、「悟りの中身はこれだ!」っていう経典やって言われてますねん。

 

この際ここで「真の楽」と「悟り」っていうことばもどういう違いかってことを説明しときます!

 

ブッダは「どないしたら”真の楽”が得られるねん?」って考えて、

「無常無我っていう真理の智慧」を「発見」しはりました。

ってはじめんところに書いたって思いますねんけど、

 

この発見から「真理の智慧目線で生きたら《これぞ真の楽》やんか」っていう方法を「発明」しはりましてん。

 

この「発見と発明」を合わせて「悟り」っていう「言語」が広まって行きましてん。

 

☆☆☆《真理の発見》と《発見に基づく真の楽になる方法の発明》☆☆☆

 

合わせて「悟り」

「ものごとを無常無我原則で正確により広くより次元を多く時空を超越して見て判断して行動する《楽》」

なんて「大げさでんなぁ」「そんな楽なんてとんでもない」って感じですねんけど、

「仏の智慧が教えてくれますねん!」ここまでが「華厳経」

ほんで、悟りについて究極が「華厳経」にありますって言われてますねん!

 

☆その「とんでもない楽って意外と簡単でっせ」ってのが、教行証文類ですねん!

 

戻りますけど、華厳経に「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が出てきますねんけど、

これを漢字で「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」っていいます。

ほんでもってこの毘盧舎那仏をパクったのが、真言宗の大日如来ですねん!

真言宗の方ごめんなさい🙏事実(現象なんで)。。

まぁ真言の方は「大日如来以上に空海さんがまだ生きてて救ってくれる」っていう、

「南無大師遍照金剛」がメインになってますし。。

 

さてと、華厳経ってどんなんかっていうのんは。。。

 

(めんどうなんで以下Wiki由来で書きますけど、直しつつ書きますね!))

 

ーーーーー

 

この華厳経の毘盧舎那仏の智慧の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、

同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。

これを「一即一切・一切即一」「すべてが《無碍》に関わる《事事無碍法界》だ」とあらわし、

「あらゆるものは無限の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、

これを「法界縁起(ほっかいえんぎ)」と呼ぶ。

 

☆結果親鸞さんは「これと涅槃経を真実の智慧」として「阿弥陀ストーリー」に置き換えはったって考えられますねん☆

 

中国の隋時代の天台大師智顗(ちぎ)は、華厳経は、釈迦が成道後(悟った後)まもなく悟りの内容を、

「分かり易くせずにそのまま説いた」経典で粗削りの教えであるとした。

だから「毘盧舎那仏」とはいうけど「毘盧舎那如来」とは言わへんのんですが、

真言宗でいう「大日如来」に発展しますねん!

 

唐時代の法蔵は『華厳五教章』において、華厳の教えを最高としている。

唐の法蔵https://ja.m.wikipedia.org/wiki/法蔵_(唐)

「法蔵菩薩とは多分無関係ですわ」

 

ーーーーー(以上Wiki由来)

 

とまぁ「ある意味《華厳経》は最高のお経」ってことですねんし、

このお経に「智慧の光明」が「毘盧舎那仏」の光明って言うてますねんけど、

このお経には「無碍」っていう言葉がよ〜出てきますねん。

 

大経の「智慧光」「無碍光」なんていうのんの、根拠って考えても《と〜ぜん》のお経です。

せやし、天親さんの「無碍光如来」がこれをいうてるっていうてもえぇぐらいですねん!

 

けど、日本の華厳宗は「奈良の東大寺」で、あの「大仏さん」はこの「毘盧舎那仏」ですし。。

親鸞さんからしたら、

「念仏弾圧して法然さんを苦しめた元凶が《奈良の寺軍団》」ですねんから、

「華厳経はすごいけど《毘盧舎那仏》はおもてにだしたくないねん」って思ったとしても当然でしょうし、

 

天親さんは「無碍光如来」を「毘盧舎那仏」といってへんし、「阿弥陀如来」といってても、親鸞さんはそこを引用してない!

そもそも天親さんが華厳経によっていたかも不明!

けど知ってて当たり前!(曇鸞さんは「論註」に華厳経について書いてはる。。「法華経」も)

 

とにかく天親さんの内容は「無碍光如来」に定義してる??

いうたら、そもそも「光明」っていうたら、「阿弥陀如来」は「不可思議光」っていう意味なんやし、

「光明つながり」になるねんから、

 

☆☆☆無碍光如来は毘盧舎那仏かもやけど、浄土教つながりで阿弥陀如来☆☆☆

 

っていう「天親さんの無碍光如来」を親鸞さんは教行証文類で明確に阿弥陀如来って確定してない分、

そうもいえるし、こうもいえまんなぁ!

 

☆☆「曇鸞さん」は「論註」に《華厳経》を☆☆

「法蔵菩薩」の「聖種性(しょうしゅしょう)として「安楽国土清浄の性」って載せてますから、可能性は充分におます❣️

これは「唯識論」として「安楽清浄の清らかな種子(しゅうじ)」という意味に解釈できまんな!!

 

また「十方の無碍人」とかって出てきます。。

 

まぁ「大経」よりも「華厳経」のほうが、先にあるし。。

 

「大経」の法蔵菩薩が「毘盧舎那仏」を根源として「光明」になり「無碍光如来」となったとして、

「大経」では仏名は「無量寿仏」。。

 

一応念のためやけんど、曇鸞さんは、龍樹の「易行品(いぎょうぼん)」と「阿弥陀経」を引用して、五念門の讃嘆門を解釈するところには「無碍光如来」を「阿弥陀如来の名号」っていうてますけど、

これは、「イレギュラー」ですねん。。

「教行証文類にあえて引用してへん部分ですねん」

《易行品や論註を読まなわかりまへん!》

教行証文類では確定できまへん!!

 

親鸞さんは大経をメインとしてて、こんだけいろんな経典や論釈書を引用してて、

あくまでも天親さんの「称無碍光如来名」のことを、親鸞さんは、教行証文類の引用の流れにあくまでも「南無阿弥陀仏」って確定してはりません!

 

行文類を見直してみますねんけど。。

 

「阿弥陀仏」っていう言葉はたまたまな感じで出てきますけど、「称名の仏名」と確定してはりません。

 

146ページ【12】で引用やなくて、親鸞さんが自分の言葉で「称名は」って書き出してて、「正業→念仏→南無阿弥陀仏→正念」って。。

どやねん!

「称名は南無阿弥陀仏→正業→正念→念仏」ならわかるけど。。はっきりしいひんなぁ??

 

152ページの「易行品」の引用でも、後ろから5行目に「十仏の名号」ってあって、

このページの最後に

「阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。いままさに無量寿仏を説くべし、世自在王仏乃至その余の仏まします。この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。〈もし人われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなわち必定に入りて云々」

8行目に「もし人仏にならんと願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれば云々」って、

 

はじめんとこに「阿弥陀等の諸仏」って?

「等の諸仏ってなんやの?」

この易行品の文章やと「阿弥陀等の諸仏が恭敬礼拝するの?」ならその名号って「どの名号?」

しかもその後に「無量寿仏を説くべし」って、「なになに??」

 

「現在十方の清浄世界に」(ここは全く華厳経由来って考えられる)

「みな名を称して」と「阿弥陀仏の本願を憶念する」ってこの文章やったら別のことやんなぁ。。

せやけど「われを念じ名を称して」ってあるけど、

その後また8行目には「心に阿弥陀を念じたてまつれば」ってあるし。。

 

はじめの「阿弥陀等の諸仏」を恭敬礼拝して称するんなら「阿弥陀限定やないし。。」

「みんなが名を称して」「阿弥陀仏の本願を憶念する」なら「称名と憶念」は別?

ほんで「われを念じ名を称して」の「われ」は「だれ?」

ほな8行目の「心に阿弥陀を念じたてまつれば。。」

「心に阿弥陀を念じるの?」

 

「なにをいうてんねん??」「わけわからん?」ってなります。。

 

まぁここで「十仏やけど阿弥陀仏やで」っていいたいのんでしょうけど、

明言しはりません。

 

この背景が「華厳経」の「一即一切」ってとこになるから、「確定しにくい」っていう、

真実寄りの親鸞さんの気持ちが読み取れるんです。

「華厳経」を知ってて読むと。。

 

「易行品だの論註だのに阿弥陀仏が出てくるのに引用しいひん」

親鸞さんの気持ちを汲んで読んでいきましょう!

 

☆☆ここは151ページの【14】の「信力増上」を受けて153ページの後ろから4行目の

「信心清浄なるものは華開けて仏をみる」(ここにも「華厳経出現」)につなげる引用だと考えると、

引用の意味は、

「恭敬礼拝→信心清浄」ってスムーズに流れますねんけど、

155ページの後ろから5行目の「仏の名号を経の本質(体)」ってところも「論註」の引用ですけど、

この前の部分に「無量寿仏の荘厳功徳」って出てきてて、

このまま読むと「仏の名号は《無碍光如来名》」ともいえるまんまになってます。

「論註にも阿弥陀如来が出てくる部分」をけっきょく引用しはりません。

 

こういうとこでも親鸞さんの中で、「《無碍》っていう華厳経の部分があって、名号を確定しいひん」っていう、

「真実寄り」な親鸞さんの気持ちを感じますねんねぇ。。

 

この後の道綽さんの「安楽集」でも「真実(法界縁起)寄り」の引用をして、

 

「やっぱそうかぁ」って感じで、162ページあたりから「方便」寄りに移行して、

163ページの「善導さん」の「礼讃」の後ろから2行目あたりの引用から、

「名字を称すれば。。かの阿弥陀仏および一切の仏等を見る。。」

 

164ページに、《出ました「観経」》で「西方」って確定しはりました!

 

ここで「完全方便説」になりましてん!

 

そんで、165ページ4行目に「弥陀世尊」って出てきて、

その前の「諸仏の所証(さとり)は平等で一だけど」

「願行で因縁がはっきり説かれてるんは弥陀世尊ですねん」って、

その続きに「ただ信心をして求念せしむ」ってあって、

い「一が十だったり、十即十、百即百」っていうようなところに。。

 

「華厳経」の一即一切(仏)っていう「法界縁起の論理」が入ってますねん!!

 

これをズッと「真実寄り」で読んでても、この辺がはっきりしいひんのんです。

しかも。。

 

170ページ【34】に親鸞さんの六字釈って言われてるところがありますねんけど、

「なんでやねん!」って突っ込みたくなるように、

「六字やのうて」「《南無》の二字」しか解釈してはりません!!

 

けっきょく法然さんの引用で「南無阿弥陀仏」「往生の業は念仏を本とする」ってあるけど、

これかて、「選んで正定をもっぱらにすべし」→「正定をもっぱらにしなはれ」って法然さんの書いてるまんま引用してて、

この「正定」は、「八正道」の「正定」なのかようわからん??

 

そもそも「さとりに定まるっていう意味でつこうてはる《正定》って言う言葉」が

(155ページの6行目に「正定は不退転(阿毘跋致あびばっち)という意味でっせ」って書いてます。)

けど「この文章をこの意味で読むと」。。

「不退転をもっぱらにすべし」って、ビミョウにヘンでしょ?

 

まぁこれは省略形で「不退転になる行ないである南無阿弥陀仏をもっぱらにすべし」ってことなんでしょ!

 

このまま読むと、法然さんのオリジナルで「《正定》の業」って「正定の行ない」ってことになるけど、

「八正道の正定」は「南無阿弥陀仏」って称えること?

 

百歩譲って、「南無阿弥陀仏って念じる正定の行」って読んだら、

「スゴイ行やんか!」「南無阿弥陀仏って念じると《三昧》になるねんって」

3–Cの正定から三昧へ①から②へっていうこと。。

「南無阿弥陀仏が観相三昧になるんか。。」

って思うかも。。

 

まぁふつうに憶念と称念は同じっていう「既成概念」で読めば、

 

「南無阿弥陀仏って称えることが《弥陀三昧》になる」

「私の自我を南无阿弥陀仏に投じる」

っていうことやって理解できますけど。。

 

このまま「既成概念」抜きで読むと、なんかようわからんまんま。。進みますねん。。

 

「称名の仏名」はこれでっせ!

て、浄土論や論註に書いてあるのに、親鸞さんはそれを無視してて、なかなか決めはりません。

 

親鸞さんのなかで《実は本源は「毘盧舎那仏」なんやけど。。》

って思ってはってたんかもしれまへん。。

 

(昨日は時間がのうて、横着してここを確認せずに書きましてんけど、やっぱりキッチリ書いてますわ「論註に」)

 

まぁそもそもどっちも「真如(真理)」について「光明」っていうてて、

基本的な内容は一緒で、「大経」の方は、「俗諦と善巧方便」の両方があるから、

天親さんも曇鸞さんも「大経を唯識と華厳経で理解しはった」って言えるもんねぇ!!

 

だから無碍光如来は阿弥陀如来でいいんちゃうかなぁ。。

 

って親鸞さんが考えはったかどうかは置いといて。。

「マジ毘盧舎那仏と阿弥陀如来はいうてることが根源的に同じ」ですねん❣️

 

そういうことで言うたら、親鸞さんは上手に「華厳経」を取り入れてはります!!

 

☆あくまでも「既成概念抜き」で教行証文類を読んでっていうのんが前提でこれ書いとりますから☆

 

ほんで「涅槃経」ですねんけど。。

(これもベースはWiki由来にしまっせ)

 

ーーーーー

 

大乗仏教の涅槃経の基本的な教えは、ってここらはさらりと読んでも大丈夫です👌

 

  1. 如来常住(にょらいじょうじゅう)
  2. 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
  3. 常楽我浄(じょうらくがじょう)
  4. 一闡提成仏(いっせんだいじょうぶつ)

 

以上の4つを柱としてまとめられますねん。

 

こっからです!!

『涅槃経』は、

お釈迦さんの入滅って言い方したらキレイですねんけど、

ブッダ(釈迦)が死んだ場面いう初期仏教にも涅槃経典っておんなじ名前の経典がおますけど、

それと同じ場面を舞台にとり、

諸行無常(存在すべて無常)」っていう仏教の基本的理念を踏まえながら、

如来の般涅槃(はつねはん)「ブッダの死亡」は方便で、

実は、如来は常住で不変だっていうて、如来の法身(ほっしん)の不滅性を主張してます。

 

ついでに「諸法無我」っていいますやろ。。

「諸行は《あらゆる存在(有為法)》、諸法は《無常などの悟りの法(無為法)を含む全て》」

っていう違いが大きなポイントになるんです。

 

さてと戻って、

ここで、普通の人間やったブッダ釈迦を「如来」って言うてる時点で、

ブッダは「華厳経」でいうてる「宇宙そのもの」が、現代的に言うところの「原子結合した状態」で

死んだのやなくて「状態が変化」して、原子に戻って「常住(じょうじゅう)」してるっていうてますねん。

 

ここでもうひとつ深めると、「存在してる」んやなくて「常住してる」っていうニュアンスがまったく違う認識になるんですけど、現代日本人は「存在と常住」をおんなじって「混乱するやん」っていう言い方ですねん。。

 

ほんで何をいうてんのんかっていうと、「無常は常住です」っていうことですねん。

「へぇ?」っていうでしょ!

「変化するということ自体は変化しない」よろしおまっか?

「如来は常住です」を「無常は常住です」って読むんです。

 

ここでさっきのついでの「諸法」「一切は無我だから無常という状態も無我」って感じですけど、

まぁほぼどうでもいいので、ここは「とにかく悟り(無常)は常住」ってことですねん!

 

ほして、「如来」っていうのんは「無常だの無我だの空だの唯識だの華厳だの」というて、

ブッダが「発見」した「真理」を「真如」っていう言い方に置き換えてますねんけど、

 

これは「真理」から見たら「華厳経」にあるように「一と一切は同じ」っていう、

「すべてが一如」「如」は「ありのまま」っていう意味ですねんから、

「ありのままですべてが一(いち)」如(ありのままは)一如っていうことを「真理」と合体させて、

「真如」っていうてるんです。

 

その真如から生まれ来たってことで、「如来」ってなりますねん!

ちなみに《私ら》が「如」やと「悟って」、「如に向かうことを《如去》(にょこ)」っていいますけんど、

この「去は行く」っていう意味ですし、現代中国語でも行くことを「去(qu)」って言いますねん!(私が行く=我去(wo qu)っていいます)

 

まぁこういう意味で「如来(真理真如)は常住です」って言えるんです。

 

「なんでこないにめんどくさいこというてんねん!」ってツッコミありがとうございます😊

 

人間が存在の側面からいわないと受け入れないからでっしゃろ!

せやから「方便」やっていいますねん。

けど、「現代日本人」にとっては「無常」の方がわかりやすいって思いますねんけど。。

 

いうたら「阿弥陀如来」っていうより「無碍光如来」と「法界縁起」の方がわかりやすい。

っていう「真実寄り」の人と、

「阿弥陀さん」の方がわかりやすいっていう「方便寄り」の人が混在してんのんが、現代日本でっしゃろ。

 

こういうとこで「ややこしいって」ミスったらあきません!

 

またいわゆる「仏法僧の三宝(さんぼう)」と如来は一体だっていうてます。

 

如来(仏)は涅槃の教法(法)を説く教団(僧)と共に一体で常住し不変であるっていうてて、「無常無我空に生きる集まりが仏教の和合衆や」ってことを言うてはります。

 

そして、その徳性は「常楽我浄」の四波羅蜜(しはらみつ)(涅槃の四徳ともいう)って書いてあるんです。

 

☆☆☆教行証文類の真仏土文類にはこの部分が「真の仏土」ってことでっせって書いてます。

☆☆☆親鸞さんの涅槃経の引用は

 

 

涅槃経の「常・楽・我・浄」っていうんは、大乗仏教で、仏や涅槃をあらわす言葉ですねんけど、

親鸞さんは、「証(意味、さとりの真楽)」つまり「(涅槃) の四徳」を、

真仏土文類に引用してはります!

 

「仏だの如来だのと言ってる本質はこういうことでっせ」って!

 

もろもろの楽しみが常で、苦しみがまじわらないのんが涅槃の徳で「極楽」っていうて、

現生の「法界縁起の無碍光を生きる五念門の荘厳功徳を生きること」についていうてはるんです。

「真実寄り」で。。

「これを智慧にして生きなはれ」っていうて!

 

『論註』に、

もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。

って書いてあって、親鸞さんは247ページの「信文類」にこの難しげな引用をして、

「(荘厳功徳の極楽を)我欲っていうか世俗の延長の楽の世界やって思ったらあきません」って

「極楽」っていう言葉を「ありがちな世俗の楽とおんなじように誤解」しんときっていうてはります。

 

親鸞さんはここに、「願作仏心度衆生心」ていうて、

「仏心を作ることを願って、ほかの人も悟るようにって願う心を、菩提心っていいまんねん」でって、

キッチリ「菩提心」を明確にしてはります!

 

ブッダは、「この世は苦でっせ、それは無常を知らず、無我を知らずに、《我欲》っていう不浄にまみれてるからやねん!」

っていうたんです。

 

せやし、「涅槃の徳を智慧にして生きなはれ」ってことで、

 

これを、逆方向から言うて「さとり(真楽)の徳をあらわす涅槃の四徳」やって、

世俗の人を説得してはります。

四徳ってのんは、

常 - さとりそのもの(無常、無我)(空性)は常住で永遠に不滅不変でおます。
楽 - 無常無我っていう、人間の苦楽を離れたところに真の安楽がありまっせ。
我 - 悟りの楽は、人間本位の自我を離れた、如来我(仏性我)にありまっせ。
これを「大我」って言いますねん。
浄 - 悟りの楽は、煩悩を離れた無常無我を智慧として浄化された清浄な状態でっせ。
っていうたんが「真仏土文類」に引用してあります。
☆これは、現実論ですし、「死んだらそういうとこに行きます」っていうことやありまへん!

 

これもビミョウにWiki由来ですけど、みなさんどーしても「現実論」にしたくないのか、

「仏や如来の世界はこうです」って書きたがらはりますねぇ!

 

それとここで大事なんは、よほど親鸞さんは「我」を注意してはるのんか、涅槃の四徳の「我」を引用してはりませんから、

真仏土文類では、涅槃の三徳になっとります!

 

ほんで、「涅槃経」には、「一切衆生はことごとく仏性を有する」(一切衆生悉有仏性)って宣言されとります。

 

この経は、『法華経』の一乗思想を継承しつつ、仏性思想によってそれを発展させたって、

親鸞さんは「誓願一仏乗」っていうて、この一乗を取り入れてるんです。

 

この一切衆生の仏性っていうのんは、別の経典では如来を蔵するともいいます。

「唯識の阿頼耶識(蔵)」と同じ発想ですねん!

すべてのいのちが如来を蔵してるって。。

 

この「一切衆生悉有仏性」は、近代の大乗仏教において衆生、

つまり人間以外の山川草木や動物などすべてにおいて仏性があるっていう解釈から

「一切悉有仏性」とも言われるようになったんですけど、

 

親鸞さんは「唯信抄文意」と言う書に「草木国土ことごとく成仏する」って書いてはりますし。

異訳の大経に「蜎飛蠕動(昆虫)も成仏」ってあって、教行証文類にこれが引いてありますしねぇ!

 

未確認ですけど、「禅宗」の先生から「道元さん」はこれを、

「一切衆生と悉有は仏性なり」ってよみかえて、「人間界では、いのちをもたないとされる存在すべてが仏性や」っていわはったらしいです!

 

まぁ現代的には「すべてが原子結合」ですし、「本質はその通り」ですわ❣️

 

また、『法華経』よりも、大乗の仏法を誹謗(そしり批判)するものに対して厳しい姿勢をとってて、

これを一闡堤(欲望よりなる者、の意)(いっせんだい、読み)と呼んで、

仏の教えでも救い難く仏となる可能性をもたないというてます。

 

けど、後の増広部分(法顕訳にない北本の第11巻以下)で、その主張を緩和して、

これは方便説って、

つまり「そしってたらそもそも真の楽になれへんし、ひとを巻き込むからこれだけはしやんといてくれ」っていうてるだけで、

ほんまのところは、謗法闡提にも仏性はあり成仏できる可能性はあるのんは当たり前ですねん。

 

そもそもみんな「無常」という「常住」(無常自体は変化しいひんから)なんですから。。

 

なお、この如来常住や常楽我浄は、釈迦仏が衆生の機根にあわせて教えを説いた仏教の段階的説法の最終形といえる。

 

ってことで。。

 

釈迦仏(ブッダ)がインドで出世した時(生まれたとき)、

人間はみなこの世が続くものと思っていて、快楽にふけり、

我の強い自分勝手な人が多く、穢れた世界であるとして、

人間の世界を否定しつつ、真理を探究していく中で、苦から解放される真理を発見して、

無常・無我・自我は不浄と説いたんです。

 

またそれが諸行無常(すべては変化し続ける)という全仏教の基本的理念になってます。

これをはずしたら仏教やありませんってことです。。

 

真理かつ真実である「無常・苦・無我・自我不浄」について、

如来とその法や真如世界こそ永遠である(如来常住や常楽我浄)と『涅槃経』

では説いてるんですけど、現代日本人にはややこしい感じになってます!

 

また同じく闡提成仏も、それまで仏教では、(仏教を否定する)闡提は成仏しがたい者であるとしていたけど、

『涅槃経』には闡提であっても仏性は有しているから成仏する可能性はある(北本の第11巻以下)っていうてて

 

教行証文類の信文類に阿闍世ストーリーを持ってきて、

「五逆っていう大罪を犯しても、謗法のものでもその考えを変えれば、

そもそも真理の中にあるんだから成仏(真の楽)を得る」っていうてるんです。

 

ーーーーー(Wiki由来、かなり加減してます)

 

このように、教行証文類には「華厳経」や「涅槃経」をつかって、

真実真理の側面を私らに教えてくれようとしてるんですけど、

けっこうハードル高いやんって思うような、真実と方便がぐちゃぐちゃになってて、

「けっきょくどないしたら真の楽になれるねん」って。。

「ややこしい」っていう事情は、仏教自体がこんな感じだからなんです❣️

 

とりあえずいうときますと、「自我」を「南无阿弥陀仏」に置き換えて、

「現実世界に功徳荘厳を見て生きる」ことで、自然に「無常無我空」を生きられると、

「むちゃくちゃ楽になりまっせ」ってことなんです❣️

 

具体的には「私は南无阿弥陀仏です」って感じで生きるか。

「五念門に生きるかってことで楽になりますねん❣️❣️

 

 

 

 

4、「俗諦(ぞくたい)」っていう真実と「方便」

 

さてさて、まぁここまで「ブッダ、龍樹、天親」っていう、

インド仏教のみなさんが教えてくれはったことの基本を書いてきましてんけど、

親鸞さんは、これらのひとが教えてくれはったことが、

中国の「曇鸞さんで一致する」ってことを書いてはります。

 

これって「ブッダが発見した」「ホンマの楽」になれる方法をいろんな教え方で教えてくれはったってことですねん!

 

せやけどこれは、真実(真理)っていう角度から書いてはりますねん。

方便っていうような内容ではおまへん!

 

「方便(ホンマもんに近づくようにする手段)」

 

っていうよりも「法則性」っていう「見えてない真理真実」「智慧がないとわからへんこと」を

「真理真実の角度からことばで説明」してはるってことの方が適切ですし、

 

こういうのんを「見えてない真理を”真諦”(しんたい)」っていうて、

 

それをことばで教えてくれはることを

「人間がつかっている《ことば》で伝える”俗諦”(ぞくたい)」

っていいますねんけど、

 

この「俗諦」に該当するっていう方が「方便」よりもおおてます(合ってます)!

 

「方便」っていうんは、

もっと「《俗世間の”ひとの価値観”っていう角度》から教えてくれはる内容」やっていうことを「きっちり理解しとくんなはれ!」

 

せやから、中国の「道綽さんや善導さん」日本の「源信さんや法然(源空)さん」は、

こういう「俗諦というより《方便》」の角度からの内容が多いんで、

 

どっちかというと「上手に巧みな方便をつかってはりますなぁ」っていうて「善巧方便(ぜんぎょうほうべん)」寄りやってことになりますねん。

 

「阿弥陀如来が哀れんで。。」なんていう教え方は「今やったら”子ども向け”」っていう雰囲気ですわ。

せやけど「俗世間のひとの価値観にはおおて(合って)ますから、その方がわかる」ってひとも多いんですわ!

 

けどけど、親鸞さんは「真実寄り」なんで「教行証文類」が面倒なことになってますねん。。

っていいますのんは「俗諦と方便が混じってますねん」そやし、

 

「俗諦と方便の仕分け」ができひん人が読んだら「わけわからん」ってなるんです!!

 

ほんでもって「親鸞さんは」もうひとつややこしいことをしはります。

 

教行証文類に不可解な経典が居てる!!

 

⬆️に続かせますね!

 

 

 

 

3–C  正定と瞑想と禅定と観察と三昧と座禅。。そして唯識論由来。。

 

ここに並べたことばはほぼ同じ意味やって思う人も多いはず!

けど、大まかに5パターンあります。。

 

①「心を無常無我」の「智慧」に流していくもの。

「正定(しょうじょう)」「禅定(ぜんじょう)」

 

②心や現実世界になにかを具体的にイメージするもの。

「瞑想」「観察A」「三昧」(唯識論由来のものもあり)

 

☆つぎがややこしんです。。

「座禅」っていうと、瞑想してるような、イマジネーションしてるような、

けど、いま日本にある禅宗は2種類あって、①②とはちょっと違いますねん。

 

③「臨済禅」

これは、ブッダから受け継がれてきたっていう「智慧」を生むために「公案(こうあん)」っていうて、

とにかく「考える」んです。

 

師匠から与えられた「問答」に「師匠」からオッケーが出るまで、何度も何度も回答を考えるんです。

せやし、「座禅は考える手段」なんです。

 

たとえば、「黄色のものを赤くするために空を使うならどうするか?」なんていうような、

わけわからん質問に回答するんです。

「それは空がきわめて無辺だから赤は黄色だったのです」なんて感じですけど、

これでオッケーになれば「あなたは悟った」として「允可(いんか)」っていうスゴイ地位がもらえます。

 

そっから先は師匠になって「公案を与え、回答を判決する座禅をする」って立場が変わるんです。

 

④曹洞禅

これは、「言葉や文字に頼らず、ただ坐る」ことを基本にして、道元が書いた「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」や「修証義(しゅしょうぎ)」に書かれてる通りに「坐禅を中心にした日々の過ごし方」をすることがそのまま「仏の姿や」っていうて、

「決められた通りの日々を過ごして、ただ坐ること」がそのまま悟りを生きることやっていうてはります。

これはほぼ道元っていう「永平寺」を作ったひとのオリジナルですねんけど、日本ではスタンダードになってます。

 

☆こんな感じで☆

似たような内容ですけど、ざっくりとまず4通りあるんです!

 

ブッダの「正定」や「禅定」は①なんで、特別なんか「見やなあかん」ってなもんやないんです。

 

浄土教は、お察しの通り②ですから、「仏の荘厳功徳」っていうてる「大経」やなんかに書いてある「蓮の花があってとかいう仏の世界」をイマジネーションして、

「唯識」がいうてるように「現実の中」に《浄土の姿を見ていきましょ》ってことですねんけど。。

 

「催眠術師」にも上手下手があるように、上手いこと「師匠」が「トランス(催眠状態)」に誘導してくれて、だんだんと「師匠」なしでも「自己催眠」に入れるようになれればいいですけど、

これも「スッとトランスにはいれる人」と「そうやない人」が居てますから、意外と誰でもできるってなもんやないんです。。

 

まぁたとえば、催眠術師のように「師匠」が、

 

はい、まずゆったりとして、「目を閉じてぇ〜」

「あなたは今、大経に書かれているような浄土にいます。」

「ほら、美しい蓮の花が見えてきましたね」「空には鳥が飛んでいて《無常だよ、無我だよ》と奏(かな)でていますね」「そうしているとあなたも仏を念じて心が智慧に満たされていますよ〜」

「あなたはそのまま目を開けても、このような浄土の光景が見えるようになっています」。。。

 

な〜んてやれば、「マジ見えるひともいますねん」けど、ほぼマインドコントロールの世界になりますから「怪しげな宗教団体」になりますし、これが「真の楽」とも「悟り」とも言いにくいんです。。

 

☆☆☆ちょっと待って☆☆☆

 

そもそも「真の楽」を得るための「仏教」が、なんで「悟りを得る」なんて「高尚なもの」に変わってんねん!

って突っ込まなあきません!!

 

「真の楽」を「悟り」って言い換えてんのん?

「まぁそうっちゃそうなんですけど」

 

やっぱ「中国」で、「皇帝」っていわれてる偉い人から「命令されて」三蔵法師っていう「賢者」が翻訳したんですから、「格式」がおますわね〜。。

 

まぁ当時は貴重なバイリンガルなひと(外国語がわかるひと)も少なかったでしょうし、

実際「賢者」なんでしょう。。

 

ほんでもって、中国ってとこは「翻訳したら」インドの原典を焼いてしもうて、

「これがインドのことばを翻訳した《正当な内容》です」っていう手を使いますねん。

ある意味「翻訳者の証拠隠滅」かも知れませんけど。。

 

しかも、「インドの内容」に「中国の思想を乗っけて翻訳してるもの」もけっこうありますねん。

「皇帝」に対して「ええかっこして」「都合のええもん」に作り変えたんかも知れませんねぇ!

そのうえ、「もともとインドのものやないのに《これも仏教でっせ》って」テキトーに中国で作った経典もあります。

いまやこれも「中国撰述経典」なんてカッコええ言い方してますけど、以前は仏教学で「偽経」って言われとったんです。

 

まぁいろいろと政治的なことがおましたんやろ!

 

とにかくいまでも「インドのサンスクリット語と中国語」のバイリンガルなんて、あんまりっていうか、かなりな確率で居ないんやないですか?

どっちもけっこう難しい言語ですし。。

 

そんなバイリンガルな賢者が訳した経典ですねんから、「すんごいことが書いてある」って思ってもあたりまえでしょうねぇ。。

 

まぁそんないきさつで翻訳された「経典」と「寺院」と「僧侶」ですねんし、

「真の楽」になるための方法ですねん!

なんていうノリやなくて、「悟り」っていうスゴイ境地に達する方法ですねん。

っていうてるほうが、

 

「皇帝」に対しても「皇帝」が政治に使うにしても都合がいいっていう感じで、

取り扱われて「朝鮮半島」にも伝わってますねんから、

 

そもそも「仏教が」っていうか、仏教の「仏像」なんかが、

飛鳥時代の日本に「中国や朝鮮文化のひとつ」として輸入される時も、

「外国の神さま」っていう扱いになってたんです!

 

なんで「真の楽」になる方法が、「神さま」になっとんねん!!

ってここも突っ込まなあかんのんです!

 

そんな感じで「平安時代」の僧侶や「鎌倉時代」の僧侶も「勘違い三昧」したまま、

「高尚な悟りの境地」を目指したんでしょうけど、

 

源信さんや法然(源空)さんは、そこがちごた(違った)んです。。

そもそも、「仏教は法楽」を説いてまんねん。

ほんでもって「平等に誰でもそれがカンタンに得られますねん」っていうたんです!!

 

「ほな、どないしたらよろしいんでっか?」

「念仏ですねん」っていわはって、「マジ念仏でものの見方が大転換して」

「救われた」っていう人がいっぱいいはったんです!

 

それを親鸞さんも「ほんまですね」っていう感じで生きはったんですけど、

親鸞さんは「なんで念仏でこんなに大転換するんやろ」って考えはったんでしょうなぁ。。

 

せやから「教行証文類」なんていう本っていうかなんていうか、

書かはったんです!!

 

ここで、みなさん!

「真の楽」を説いていた仏教がなんでこんなふうになってしもて、

けっきょく「親鸞さんはなにを言いたかったんか」っていうことと、

 

五念門の観察門。。

 

これが5つ目

⑤「観察B」になります。

無碍光如来の智慧「荘厳功徳」にたとえられている「意味」「認識」を、

現実世界の智慧にして生きるってことなんです!!

 

「浄土の鳥が仏法を奏でてる」って書いてあるのんを、

「あ〜せやなぁ」「虫の声が私に《なにをイラついてまんねん》っていうとるように聞こえるなぁ」

「あかんあかん」

「しょーもないことで腹を立てとったけど、あいつのものの見え方とわしの見え方が違うんやろね〜」

「考え直しまひょ」「虫さんも仏の化身やなぁ」(唯識由来)

ってな感じになってまたまた「知らんてるあいだに《無常無我空という真理を唯識由来で見る》」っていう人になっていきますねん!

 

このひともこんなことを日常的に繰り返すとマジ「無常無我、空」が染み付いていきます!

 

これが五念門の全体ですねんけど、なかでも「観察門」で「清浄功徳を観察する」っていうことですねん!

五念門を書かはった「天親さんが唯識のひと」ですねんし、こう考えるのが適切な解釈でしょう!

 

つまりは「知らん間」に「仏の智慧目線」で現実を見るようになって「真の楽」になるってことですねん!!

 

これで「龍樹さんの中観(空)と唯識がいい感じでひとつ」になりました!!

このいい感じは「曇鸞さんが論註(ろんちゅう)に書いた内容」なんです❣️

 

 

 

 

 

3–b 布施と清浄功徳 

3、のところに

例) AがBにものを渡す時に「放り投げた」という事実(現象)をあなたはどう見るか。

①「AがBにものを投げよった」という現実になるのか、

②「AがBにカッコよくものを渡した」という現実になるのか、

③「たんにAからBにものが移動した」と自分の認識をplusしないで「現象」だけを見るのか。

これだけでも

①なら「なんと良識のないやつやねん」ってなるでしょう。

②なら「かっこええし、あこがれるなぁ」ってなるでしょう。

このような「自分の認識を事実(現象)にplusする」だけで、

あなたの脳の中のデータに変化が起きます。

 

 

って書きました。

 

③なら「。。。」特に意味はなく、脳の中のデータは変化しません。

 

ここでポイントですねんけど、

plusする認識データが「無常無我」に基づいていたら、

「真の楽」になれるんで「真に実る」っていう「真実という現実」を見るようになれますねん。

 

☆☆けっきょく「無常無我、空」を見て生きると「真の楽」になる☆☆

 

ここに落ち着くんです。

そして、これらをまとめて

 

☆☆☆《真如(しんにょ)》っていうてて、教行証文類に一貫する真実ですねん❣️☆☆☆

 

とも書きました!

これを踏まえて読んでください。

 

ここで大事なんは、たとえば「布施」でも、

A 布施する門徒さん。

B 布施される坊さん。

C 布施の中のお金。

とした場合に、単に「AからBにCが移動した」という現象ですから、

「感謝も、してあげたも、安い高いも何もない」のです。

こんな風に見るのんが「布施」ですねんけど、「感謝しましょう」なんていうキレイゴトは

仏教ではありません!

布施は「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」原則ですから、たんなる現象です。

 

清浄ってのは「自分の《認識》をはさまないこと」ですから、はじめのたとえで言えば③になるんです!

みんなこういうことに思い(自分の認識)をはさむから「真の楽」になれないし、

周囲に悪影響を及ぼします。

 

利他のための「和顔愛語」でも感情の話ではなく、冷静に相手を怖がらせないようにする行為であって、「やさしい気持ちで。。」なんていう甘ったるいセンチメンタルなことではないんです。

すべては相手が一般人においては、「情」を方便として使うっていうことです。

 

「阿弥陀如来の哀れみ」なんていうのも、相手が「未だ仏教者ではない前提」です。

「情」を使い、慈悲によって智慧「知」に導くっていう流れなんです!

 

だからこういう和顔愛語なんていうのも、キレイゴトやないっていうことを知っておかないと混乱します。

「清浄功徳」っていうのんは、そういう前提なんです!

 

 

 

 

 

 

3–a、「名色(みょうしき)」が存在を確定する。

 

2、に書いた「十二縁起」の中に「名前をつけて存在を確定する」って書いたのんは、

詳しく書くと、「名前をつけた色で存在を確定する」っていうことになるんですけど、

前にもどっかに書きましたけど、仏教の基本は、存在を形じゃなくって「色」で捉えていると分析しているんです。

 

せやから、存在をひっくるめて「色」といい、そこに「名前」をつけて存在を確定しているっていうのんが仏教の前提なんです。

 

だから「教行証文類」に「名字名字」とか「名づく」っていう文言がいっぱい出てくるんです!

 

そういう点で「(色)即是空」っていう表現になってるんです。

ここでは直接的には「肉体」のことですけど。。

 

しかし「脳科学」がなかった時代に、「唯識という原理」を発明して、

「メディテーション(三昧)」のなかで「極楽浄土の功徳荘厳」を観察する。

 

っていう、現代でいう「トランス(催眠)」を利用した方法を行にした

天親はんは、ある種天才でんなぁって思います。

 

けど、メディテーションは難しいから「帰命尽十方無碍光如来」の「帰命」で

「無常無我、空」の「光明」に身を投じるっていうテクニックは「ナイス」なアイディアです!

 

そして「五念門五果門」っていう具体的な方法を定義したってのんも大したもんです。

そしてこの行は「無常無我、空」を自然に体得できるシステムになっているんですから、

マジマジ、凄いです!

 

この如来の「名字」に置き換える。

「名前による」存在の確定というポイントも含んでいて、

私たち凡人も、「無碍光如来名」に帰命して、自然に「自我名」を「如来の名字」に

置き換えるロジックが仕掛けられている。

 

そのうえ「無碍光」という「智慧」を体得して、無明を破ってくれる。

それを「讃嘆」と定義する。

 

こうなれば、凡人でも「無常無我、空」を体得して、真の楽に至れるなんて、

むちゃくちゃセンスある方法ですやんか!

 

なんなら「観察」できる人は「メディテーションでマジで功徳荘厳」を「催眠」で見られますし、

浄土論は「それまでの仏教を集約」しているんです。

 

だから親鸞は「浄土論」「論註」を重要視しているんやってよーわかります!

 

これがわからん人には「善導」の方便を用意しているあたり、

親鸞がいかに仏教の根本を知り尽くして「教行証文類」を書いてるってわかるので、

マジ凄い人たちですねぇ!!

 

 

 

 

 

3、空、唯識という古典科学

 

ブッダはこんな風な論理家だったんで、弟子もこういうタイプの人たちが多くって、

ブッダが死んでから、弟子が集まって「ブッダのいうたことをまとめる」のに。

論理的な解釈の違いで分裂していきました。

 

そのなかで「説一切有部(せついっさいうぶ)」っていうてる、

「仏教ってのはなんかえらい難しげですねんなぁ」って思わすようなグループがあって、

 

これが「倶舎論(くしゃろん)」っていう小難しげなテキストになっていますねんけど、

これを書いたのんが「天親(てんじん)」っていう人ですねん。

 

このひとが、倶舎論を書いてからだいぶんたって「唯識(ゆいしき)」っていう論理をまとめますねんけど、

このひとが「唯識をまとめる」前に、「龍樹(りゅうじゅ)」ていうひとがいてて、

 

なんか聞いたことのあるような「色即是空」っていう「中観派(ちゅうがんは)」をまとめたんです。

あの「クレヨンしんちゃん」のお家の掛け軸はこれだったと思いますねんけど。。

 

まぁそれは置いといて。。

 

「空(くう)」ってのは、2に書いた「無常無我」をひとまとめにして、発展させたものなんで、

意外と普通のことです。

 

「人間もなにもかも、元素やなんかの結合体だから、確定した存在はない」っていう、

現代では「あたりまえのこと」をいうてるんです。

「人間」っていう「ことば」で確定してても、いつかは「元素」っていうことばで確定される時がきますねんでってことです。

 

けど、やっぱ「普通のことを普通の人は受け入れてへん」っていうのんが、苦を作ってますねんでってことですけんど、

この「龍樹」ってひとは「大乗仏教やなかったらあかん」っていうた人たちのグループの元になった人なんで、「苦」を「個人の問題だけやないねん」という「社会学的スタンス」ももちながら、

 

「あんたさんが一人で苦しむのんは勝手やけど、あんたはんが人を巻き込んでみんなが苦しむようなこともしてますねんで」

「せやし、みんなが楽になるように考えなはれ」っていう「利他(りた)」を重視して「慈悲」っていうことを重要視してはります。

 

せやから「とにかくあんたはんも《結合体》つまり《空》のひとですねんから、そのことを理解して、お互いみんな空やねぇ」って「打ち解け合わなあきまへん」っていうたんです。

 

まぁ世の中は「このあたりまえのこと」が通じないひとが多くって、

「空やていうてても、有るやんか!」っていう人が出てきますねんねぇ。。

 

せやから「めんどくさいけど」それはねぇ。。。

「いっとき仮に結合してるからあるようにおもてるだけですねん」

「まぁいうたら《空即是色》ですわ」「元素が仮にいっとき和合結合してるだけなんですやんか」

ってな「逆方向の説明」がいりますねん。。

 

まぁ龍樹ってひとはこんなふうなことを「論理的」にいうたんですけど、

 

「まだわからん」「なんで親子が似てたり、先祖に似てたりするねん?」

野球なんかでも何回も練習したら上手になったりしますねん?」

「なんで親や祖父母と思想や行動の傾向が似てますねん?」

 

「たんに結合だけやないでしょ」っていう、「微妙に輪廻に関したような説明」をしなわからんひとがいてて、

 

唯識派の登場ってなりますねん。

 

唯識派は「いまでいうDNA的な説明」を発見したんです。

しかしこれはDNAとは微妙に違ってて「説明原理」であって、「事実前提」ではないっていうことがポイントです。

なんでかっていうのはここからですねんけど、

 

唯識派は、

「そもそも私たち人間には《阿頼耶識(あらやしき)》っていう《認識の容れ物》があるんです。」

「ほんでそこにまぁたとえ的にいうたら《種子(しゅうじ)》(タネ)が入ってましてね、そのタネ同士が互いに影響し合いつつ、現実を見せてるんです」

「だから私たちが見ている現実は《タネ》が見せている《幻想》ですねん」

「ひとが苦しむのは、この《容れ物》のなかの《タネの状態によって見えてる世界》が違うからですねん」

「だから、同じ状態を他人と共有していると見えているだけで、実際はまったく違う世界を見てますねん」

「ほんでその人が死んだっていう認識をしても、次の生命体として阿頼耶識が受け継がれて、生まれたっていう、次の認識状態になりますねん」

「まぁ全部認識だけが存在してるだけなんですけど、そもそもこの阿頼耶識も《空》ですねん。。」

 

ってなにをいうてはりますのん??

 

「けっきょく難しくって余計わからん」ってなるんです。

けど意外と簡単なんです。

 

「コンピュータ」にたとえて考えてください。

ハードディスクにデータが入っていて、そのデータを人間なりが変更したりすることで、

「成果物」が変わっていきます。

 

そこで出てくる「画像、画面の内容」を私たちは見ています。

ということを基本にして、

これを「脳」に置き換えてください。

 

遺伝子や環境、出来事によって、脳のデータが変わります。

すると同じ事実を、同じようには見ていないという状況ができます。

 

2の「数珠」と同じで、「数珠」を知ってるひとは数珠だと認識しますが、

知らない人は「ネックレス」と認識しているっていうことをお互いに「知らないまま関わっている」ということです。

 

「あの人の気持ちがわからない!」っていうケースがよくありますけんど「当然」なんです。

じつはみてる世界が違いますねんから。。

 

「価値観の違い」っていうのは、「認識が違う」っていうことですねん。

 

唯識で「一水四見」っていうたとえがありますけど、

「水」を「人間」が見れば「のどを潤す、ものを洗う」といういわゆる「水」になりますが、

「魚」が見たら「棲み家」にみえる。「天人」が見たら「水晶や道路」に見える(らしい)。。

そして「餓鬼道」のものが見たら「膿み」に見えるって、これは現代ではよくわかります。

 

現代日本では「水道水」が飲めるといわれても、

「なんかいろいろ混じってそうで飲む気がしーひんから、浄水器を通すか、ペットボトルの水しか飲めへん」って、

餓鬼道のように「水道水」が「膿み」に見えてるって感じですねんねぇ!!

 

「タコ」は日本人は食べるけど、西洋人は食べない!

 

けっきょく認識ってのは「ことばと色による認識」で共有しているように思えても、

それ以上の認識はじつは共有していないってことを言うてて、

 

この「認識が幻想であり、認識の容器(阿頼耶識)すら空」だっていうところで、

「無常無我」を「タネとして認識に埋め込む」ことで、「真の楽」が見えてきますねんで、

「目の前に極楽浄土が見えてきますねんで」っていうてるんです。

 

実際に瞑想して「脳をセルフコントロール」できるようになれば、1、に書いた

「自己催眠状態」になって、「マジマジ極楽浄土の風景も見ることはできる」んです。

 

脳が見せている世界は「じつはマジひとりひとり違う」んです。

 

極論でいうたら、「認知症のひとには、その人が言ってるように見えてる」んです。

脳の視覚野も「都合のいいように、見えている世界のつじつま合わせ」をしてます。

 

たとえば「目の錯覚」もあるし、そもそも光の速度と音の速度は違うのに、

「目の前で話している人のことばと口の動きが同時に見えていること」が事実やないんです。

脳が同時やねんでって修正してますねん。

 

こんなことをいっぱい脳はやってくれてますねんから、あんたはんとわたしが同じものを同じように見てるっておもたらあきませんねん!!

 

私がよく話しますねんけど、

国語的な意味ではなくって、「事実と現実は違う」って言いますねん。

 

「事実」に《あなたの認識がplus》されて「現実」になるといいます。

 

例) AがBにものを渡す時に「放り投げた」という事実(現象)をあなたはどう見るか。

①「AがBにものを投げよった」という現実になるのか、

②「AがBにカッコよくものを渡した」という現実になるのか、

③「たんにAからBにものが移動した」と自分の認識をplusしないで「現象」だけを見るのか。

これだけでも

①なら「なんと良識のないやつやねん」ってなるでしょう。

②なら「かっこええし、あこがれるなぁ」ってなるでしょう。

このような「自分の認識を事実(現象)にplusする」だけで、

あなたの脳の中のデータに変化が起きます。

③なら「。。。」特に意味はなく、脳の中のデータは変化しません。

 

ここでポイントですねんけど、

plusする認識データが「無常無我」に基づいていたら、

「真の楽」になれるんで「真に実る」っていう「真実という現実」を見るようになれますねん。

 

☆☆けっきょく「無常無我、空」を見て生きると「真の楽」になる☆☆

 

ここに落ち着くんです。

そして、これらをまとめて

 

☆☆☆《真如(しんにょ)》っていうてて、教行証文類に一貫する真実ですねん❣️☆☆☆

 

ほんでもって、これを人間同士が共有して「元素→分子ように、調和した和合関係を作って、互いに争いや奪い合いをしないように生きていきましょうよ!!」

「智慧から慈悲を生きましょう!!」

っていうのんが「大乗仏教」ですねん。

 

そしたらどないしたら「そんな和合関係が作れますのん?」っていうとっから、

「世尊我一心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国」でしょ!!

っていうたんが、唯識派を作った「天親」はんの結論でっしゃろってことですねん❣️

 

せやから「教行証文類」につながりますねん!!

 

 

 

 

 

 

2、仏教は古典科学でもある。

 

ブッダは「確認確証できないことは論じない」っていうことを徹底していたようです。

つまり形而上的なことを論じても「真の楽」にとっては「無意味」だっていうことなんです。

 

「死んだらどうなる」「霊はいてるのか」なんていうようなことです。

 

ブッダは「そんなん知らんやん」「それよりもいま、目の前の問題をどう解決するのか」っていうことが大事でしょ!

 

っていう「現実論者」だったみたいです。

 

そういう現実論の中で、「ひとが苦しむのはなぜか」?

って考えて、

「世の中も人間も《変化し続けている》のに、そんなものごとに《執着するから》なんや」という、

「無常の法則」を発見しました。

 

また、違う角度から「無常なものごとに《とらわれなかったら》苦から解放されるやんか!」って、

「我執(がしゅう)」が「苦のもとでっせ」ていう「無我の法則」を発見したのんです。

 

そのうえブッダは、

「人間の苦しみのサイクルがなんで起こっているのんか」って考えて、

 

「ひとはこの無常無我の真理に、無知な上で、意思を起こして、いろんなことを認識して、それに名前をつけて存在してると確定し、六感でとらえて、それらに六感で触れることで、感受して、無知な中で良し悪しを分別して好ましいものを見つけて「渇愛」して、受け止めて、これぞ私だ私の所有だと、無知による自我の生、と老死に、苦しんでいる。」っていう、

 

「無知」から「生老死」への十二のプロセスを日々巡りながら苦しんでるねん。

 せやから、すべての苦は「無知」「勘違い」からスタートしてますねんで、

 

けど、そこが「真理の智慧(無常無我)」に置き換わったら、「無知がなくなって、智慧による意思が起こり。。。」「無明が滅して、次々滅して、老死が滅する」って

「老死の苦しみのサイクル」がなくなるやんねぇっていう感じで、

「苦からの解放」は、「無知を智慧に置き換えることですねん」って教えてくれてるんです。

 

クドイですけど、その「智慧」の基本はさっきの「無常、無我」っていうことなんです。

 

これを専門用語で「十二縁起(じゅうにえんぎ)」っていうて、「無知を正確には《無明(むみょう)》っていうんです。

 

☆ブッダは物理学のように「無常無我」っていう「だれも否定できない真理」を発見して、

心理学のように「十二縁起」を教えてくれたんです。

 

まぁ、ブッダはこんなふうな現実論者だったんですけど、

ブッダが死んで、「無常無我」の”真理そのもの”になったっていうことで、

「入滅(にゅうめつ)」とか「涅槃(ねはん)」に入ったなんていわれたんです。

 

こういう表現。。

難しそうな感じですけど、仏教ってこんな感じのニュアンスが多いから、難しそうに思えるんです。

 

内容そのものは簡単なことなんですけど、概念を理解しにくいんです。

 

この「入滅」だの「涅槃」だのという概念をわかりやすく書きますね。

「真理そのものになった」っていうことは、

現代的にいう方がわかりやすいから、そうしますね!

 

世の中のすべてが変化しているっていう「事実」があるけど、むちゃくちゃ「日常的な話」でいえば、

「数珠(じゅず)」ってありますやんね。。

 

この「数珠」って、そもそもが「数珠を知らない外国人」が見れば、

「ネックレス?ブレスレット?」って思うかも。。

私たちは、まずはこんなふうに「名前」で「存在」を確定しながら生きてますよね〜!

 

でも、「数珠」だって「変化して」るんで、「ヒモが切れる」という現象が起こりますよね〜。

そしたら、そのとたんに「ヒモ」と「たま」っていう「名前」に分離しますよね。。

 

ほんでもって、このヒモなんかは、ほどいたら「糸」になりますやろ。。

 

こんなふうに分解されると、やがて「分子」や「原子または元素」になりますやろ。。

「人間」も「細胞」→「分子」→「元素(原子)」→「素粒子(量子)」ってなりますよね〜!!

 

そういう「存在のもともとの状態」に戻っていった。

このことを「入滅」っていうて、「火が風で消えたような状態」を「涅槃」っていうてるんです!!

 

そやし、「ブッダは入滅した」っていうたら、なんかいかにも「凄い状態になった」って感じになりますねんけど、普通のことなんです。

 

けど、「執着」の中で生きてると、この「普通のこと」が受け入れられへんのんです。

「無常無我」だって思えてたら「普通のこと」

物理学風にいうたら「状態の変化」でしかないことに、

「生まれる」とか「死ぬ」とか名づけるから「気持ちがしんどくなる」んです。

 

「死にました」やなくって「状態が変化しました」ってことなんです。

 

「うちの親が死にました」「悲しいね」っていう状態は、いわばあたりまえの現象ですから、

「私という生命体の親」と名づけられていた「生命体」が「変化して」生命体から

「元素(原子)」になりましたねん!

 

それだけのことなんで。。

「悲しい」ことやのうて「あたりまえ」ですねん!!

っていうのんが「真理」ですやろ!!

ってことです。

 

「そんな《非情》な考え方は受け入れられへん」って思いますやろ。。

それこそが「無知(無明)」による意思ですねん。

 

人間の脳には「扁桃体(へんとうたい)」っていう「情」を動かす部分があって、

これが「本能」を動かす「小脳」あたりにありますねんけど、

 

ほぼ人間にしかない「大脳新皮質に前頭葉(ぜんとうよう)」ってのがあって、

ここが「論理」を作る「冷静な部分」なんですけど、

「仏教はもともと前頭葉をどう使うか」っていう性質のものですねん。

 

だから「非情な感じの内容」が結構あります。

けど、それが「真理」だから「受け入れなきゃシャーナイ」んです。

なぜなら「そうなると真の楽になれるから」なんです!!

 

仏教ことに大乗仏教には「修飾語」が多いんで、こういうのんを「法楽(ほうらく)」っていう、

えー感じの凄いことみたいな表現をしはります。

 

っていうても、仏教はこんなふうなことを論じてるから、「一般的な情」で考えるとわけがわからんようになります。

だから「仏教は古典科学」だっていえるんです。

 

ほんでもって「情」で思考すると「仏教がなんで苦の解放を言うてるのか」わからんようになって、「苦」からは解放されへんのです。

 

そやし、「智慧(ちえ)」がまずもって先に「重要」だっていいますねん。。

 

ブッダは「生も死も等価です」っていうことをいうてるんですけど、「執着」っていう「気持ちがジャマします」ねんでっていうてはります。

 

これがこんなふうな「論理」で「了解です!」って簡単にならへんから、いろんな教えを工夫して、

いっぱい教えを説かれたから、いっぱいお経があるんです。

 

 

 

 

 

 

 

1、仏教の根源

 

唯識論がわからないというお声があり、まずはそこから書いていきます。

 

とりあえず仏教は「苦からの解放」がテーマだと補足の2に書きました。

ブッダは、「苦の解放を求めて」菩提樹の下で「瞑想をして悟った」ということになっています。

 

これは、「瞑想」という方法で、どうしたら「苦」から解放されるかという「方法を発見した」ということなんです。

その方法が、仏教の初期の内容では「八正道や十二縁起説」であると言われています。

 

けっきょくその中の八正道は「正しく見るから始まり、正しい瞑想」に至ります。

十二縁起は「無明の滅から始まり、老死の滅」に至ります。

 

仏教はこのように「世の中や自分をどう見るか」という「観察(かんざつ)」をポイントにすることが多いんですが、それを「瞑想」とか「三昧(さんまい)」という方法で実践するということになるので、「難しそう」とか「神秘的」になるんですが、なんてことない現代の「催眠心理学」のことなんです。

 

「催眠」という技術は「脳の動きを他者の暗示や自己の暗示で動かす」テクニックです。

じつは誰でもできます。

「神秘でも、スピリチュアルでもありません。」

「ノリノリのライブで踊っているようなものです。」

 

催眠に入れば「身体が勝手に動いたり」「幻視覚や幻聴、幻感覚」に始まって、深く入ると「記憶の操作もできます。」

 

「ほら目の前に死んだおじいさんが見えますよ」なんていうと、入りやすい人はすぐに「幻視覚」をみてくれます。

「ホントだ。おじいさーん」なんていうことは簡単にできる技術です。

これは、「ことばと演出」によるので、その気になれば「習得に時間はかからない」ので速攻できます。

 

「自己催眠に入りやすい人は、自分の無意識で催眠に入るので、金縛りとかなんとかいつでも体験できます。」

 

なぜこんなことができるのか、私たちの五感や六感が見聞きし、感じていることは全て脳がやっているからです。

こういうことを悪用したのが「新宗教の一部」だったり「催眠、霊感商法」です。

 

これを現代風に言えば、脳のデータの操作、つまり「マインドコントロール」「洗脳」です。

私たちの周囲にはこういう仕掛けがいっぱいあるんです。

特に「映像」にはお気をつけください。

 

とにかく私たちの見ている現実は「脳が作ったもの」です。

こういうことから、仏教の基本でいわれる人間は「五蘊(ごうん)」からできています。

っていうことになりますが、「色、受、想、行、識」五つのうち「色」のみが肉体で後の「四つ」は心の動きのことです。

 

つまり人間はカラダと心の動きからできている。

ということですが、心の動きを重視します。

 

現代でこそ「脳の活動」「脳内データ」という表現ができますが、仏教が説かれた時代にはそういう概念がないので、「脳や脳内データの動きを《認識》」といい、「その認識が存在の根拠だ」といったのが「唯識論」になります。

 

つづく。。。