親子万歳奮闘記 way to health

1.運命の出会い
僕がマクロヒ゛オティックと出会ったのは、1997年10月、僕が小学6年生の時だ。
あれから随分の月日がたった訳だ。
そもそもの始まりは、母の友人から手渡された1冊の本がきっかけだったらしい。
読み終えると、突然母は父に「ボストンへ行こう」ときりだしたという。
その頃、僕はまだ入院中で、すっかりからだはボロボロ、気分は絶望的にあれていた。
「もうオレは一生退院できないんじゃないか」 毎日、そんな事を考えていた。
入院も長引いていたある日、週末外泊の許可がでたと母がしらせてくれた。
おもいがけなかったので思わず「オレ、生きて病院からでられるの?」と聞いていた。
後から聞いた話だが、母はその僕の一言で「どーにかしなくちゃ」と真剣に思い始めたらしい。
そんな時に手渡されたのが久司道夫先生の「マクロヒ゛オティック健康法」だった。
その本を読んだ母は、先生がボストンにお住まいだと知り、
僕を連れて会いに行こうと考えたのだ。
父も同意して、さっそく先生のスケジュールを調べてもらったら
「先生は今、日本にいらしています」という。
ボストン旅行は僕の知らないところで盛り上がって、なくなった。 
2日後、母は先生に会うために東京にでかけた。
講演会の前に少しだけ時間をとって、話を聞いてくれたのだ。
そして、「お母さん、息子さんは必ずなおりますよ。食事です!」
この力強い言葉と出会うこととなるのだ。
次の日、まだ興奮の冷めない母は、「すごい先生に会った」とか
「今日から病院のご飯はたべないで・・・」と言い出した。
僕の運命のマクロビオティックが始まった。   

2.  久司先生と会う     

母が久司先生と会ってから2週間後、
僕と母はマクロビオティックをもっと知るために、
伊豆の「クシマクロビオティック合宿セミナー」に出かけた。
僕にとっては6泊7日の楽しい旅行気分だった。
しかし、入院の名残りでかなり顔色が悪かったらしく、
駅で電車を待っていても、
近くのおばさんが「あなたちょっと顔色が悪いわよ」と
ベンチを譲ってくれるほどだった。
足も今ほど強くなく、母がヨレヨレの状態の僕を、
ひきずるようにしてたどり着いたのを覚えている。
セミナーのカンファレンスルームでは、
おばあさんに「あら、僕来たのね」と声をかけられた。
「誰だろう?」と当時は思ったが、山本祥園先生だった。
次にパトリシオさんが来たというので、僕は玄関に迎えに行った。
母から笑顔の素敵なスペイン人と聞いていたので会いたかった。
「How are you?」と声をかけた。一瞬、驚いていたが笑ってくれた。
僕はすっかりパトリシオが大好きになっていた。
みんなの温かい雰囲気に、だんだん元気になれそうな気がしてきた。
夕食前、早めに食堂に行くと、
背の高いおじいさんが誰かと話している後ろ姿があった。
僕にはその人が久司先生だとすぐにわかった。
引きつけられるように
僕は「クシせんせーい」と馴れ馴れしく肩をポンとたたいて声をかけた。
「やあ、来たね!」と優しい、ちょっとおどけた声が返ってきた。
・・・が隣で母は僕のこの大胆な行動に凍りついていた。
ついに、僕は久司先生と出会った。
先生の回りの空気は柔らかい優しさに包まれていた。
その雰囲気はすぐ僕に「がんばろう」と決意させた。  

3.魅惑の玄米

初めてのマクロビオティックセミナーは、
伊豆の富士山の見える小さな旅荘で貸し切りだった。  
参加者は50人位だったのでアットホームな雰囲気だった。  
もちろん僕は最年少だった。
朝は、パトリシオさん指導のメリディアン体操から始まる。
朝食後はマクロの基本の調理実習だ。
お料理の講義は山本祥園先生、実習は大久保地和子先生が指導してくれる。  
6人ぐらいのグループで玄米ご飯、きんぴら、切干大根、小豆南瓜などを作った。
グループリーダーはパトリシオさんで、
左手の不自由な僕に包丁の使い方を丁寧に教えてくれた。
なんだか料理が楽しくなってきた。
いよいよ昼食という頃、
久司先生も現れてどこかのテーブルに着いて一緒に食事をしてくれた。
誰かが「おいしい」という声をあげた。
僕も母もそのおいしさに顔を見合わせた。
初めて圧力鍋で炊いたそのご飯は、
底がうっすら焦げているのに上はもっちり糸をひいていた。
僕達はあまりに柔らかいそのご飯は失敗だと思っていた。  
すると祥園先生が「あら、いいご飯が炊けたね」と声をかけてくれた。
「嘘だろう?」と思って食べたご飯は甘くて本当においしかった。
ミレットのランチのご飯はこのときの玄米ご飯のイメージが基本になっている。  
切干大根もきんぴらもお醤油だけの味付けなのに、甘くておいしかった。  
今まで母が作ってくれたものとは全然違う衝撃の味だ。
僕は「ママは料理がヘタなんだ」と確信した。
数日後、
久司先生が「お母さんのお料理、おいしいでしょ」と声をかけてくれた。
僕は、はっきり「まずいです!」と答えていた。  
・・・が、このひと言が母の料理魂に火をつけることとなる。 

4.本当の優しいお母さん

当時、小学6年生の僕には、久司先生の講義の内容は難しかったので、
すぐに疲れてしまい、部屋で寝ていることが多かった。
セミナーも中盤になった頃、先生は参加者全員の食養指導をしてくれた。
みんなの前に出て、それぞれの食生活や健康状態を報告して、
改善のための指導をしてもらうのだ。
いよいよ僕の番が近づいた時、
母は、僕にほんとうの病名を教えていなかったので躊躇したらしい。
先生が「僕も一緒に」ということで、僕もその場に呼ばれた。
母の極限の緊張などしるよしもない。
僕は母の口から伝えられた病名さえも耳に入ってなかった。
とにかく僕にとっては、「お肉をやめたら治る病気」でしかなかった。
セミナー最後の夕食はパーティだった。
いつもの講義の部屋は、大きな木が組み込まれて囲炉裏が作られていたり、
たくさんの料理がところ狭しと並べられて、まったく違う雰囲気になっていた。
僕は、大好きな肉や魚が使っていないパーティの料理なんてはっきり言って、
期待していなかった。
囲炉裏の鉄鍋には鯉こく、揚げそばのあんかけ、
玄米団子、セイタンの焼き鳥風、揚げ物、パトリシオさんのケーキなど盛りだくさんだった。
どの料理もおいしくて、もちろん母は全種類食べるとはりきっていた。
母が僕に揚げ物を持ってきてくれたとき、
大久保先生が「あら、あなたは油物をとめられているでしょ」と声をかけてきた。
「目先のかわいそうで食べちゃいけないものをあげるのと、我慢をさせて元気にするのと、どっちがほんとうにやさしいお母さんかしら?」
母にとって目から鱗だったのだろう。
母は「本当にやさしいお母さんになる宣言」をした。  

  5.お弁当の始まり

初めてのマクロビオティックセミナーを体験した僕と母は、
今までとは違う新しい世界に飛び込もうとしている自分達にわくわくしていた。
さっそく父に、セミナーで実習した玄米やきんぴらを作って、
家族全員で玄米食を始めようということになった。
父は喜んで賛成してくれた。
「本当に優しいお母さん宣言」をした母は、
まず今までの調味料をすべて処分して、
マクロビオティック対応のものに代えた。
野菜も宅配の有機栽培の野菜を取り寄せた。
そして一日のほとんどを僕のための料理に費やした。
もちろん学校にはお弁当を持っていくことにした。
最初は粗食そのもののお弁当だった。
クラスの数人は必ず僕のお弁当をのぞきにきた。
ある日、母が寝坊して玄米ご飯ときんぴらだけの時があった。
それを当時僕が好きだった女の子に見られ、
ちょっと驚いた顔をされてしまい恥ずかしかった。
母にその事を話したら、
給食のメニューに合わせておかずを作ってくれるようになった。
ハンバーグは高きびで、とんかつは車麩で、
チキンは高野豆腐を使ってと工夫してくれた。
ミレットのランチメニューはこのお弁当が原点になっている。
とにかくマクロのお料理を、僕に嫌われないように母が必死だったという。
給食にゼリーがつくと寒天でゼリーを作ってくれた。
冬はお弁当が冷たいというと、お昼にできたてを届けてくれた。
夏もいたまないように、お昼に届けてくれた。
しかし、僕の中では「みんなと同じ給食を食べたい!」という気持ちは
どんどん膨らんでいった。
母の努力には感謝はしていたが、
大変な世界に飛び込んでしまった実感がストレスとなって僕に押し寄せた。

6.アトランタ旅行

僕たち家族は父の仕事の関係で、
僕が1才半の時から小学2年までの約6年間
アメリカのアトランタで過ごしていた。
その頃はまだ母も食事の大切さなどには気がついていなかったので、
早くアメリカの食生活になじもうとしていた。
日本にいた時はごはん好きの僕だったが、
現地のナーサリーに通うようになると
強制的に母にパンのランチをもたされてしまった。
週末は庭でバーベキュー、夕食にピザが登場することも珍しくなかった。
日本人学校に通うようになって、ごはんのお弁当を作ってくれたが、
スクールバスの僕の降車地点はなんとマクドナルドの前だった。
そのまま、他の日本人の友達とマックのプレイルームで遊ぶのが日課になっていた。
そんな楽しくも恐ろしい食生活を送っていたアメリカ生活だったが、
僕にとってはそれまでの人生のほとんどを過ごしていた訳で
なつかしい第二のふるさとでもあったのだ。
僕が入退院を繰り返していた頃、退院して体調が良くなるとよく家族旅行をした。
たいていは福島や栃木など近くが多かった。
しかし、マクロと出会う直前の話だが、
母に「どこか行きたい所ある?」と聞かれて、
急に楽しかった小さい頃を思い出し「アトランタに行きたい!」と答えていた。
セミナーから数日後、僕達家族は予定通りアトランタへ向かった。
玄米、梅醤番、調味料を持参して、以前家族ぐるみでおつきあいのあった人の家にとまった。
なつかしい友達も遊びに来てくれたりして、本当に楽しかった。
僕も両親もすっかり病気のことなど忘れて、
このまま時間が戻ればいいと願わずにはいられなかった。
だが、次の入院予定日が迫っていた。

7.久司先生の電話

マクロビオティックの講演会やセミナーで、
いろいろな方の治病体験を聞いてはいたが、
僕達家族はまだ、西洋医学から離れることをためらっていた。
最初は、「病院の治療の副作用を軽くするためのマクロビオティック」
という程度にしかとらえていなかったので、
思わぬ展開にとまどっていたという言う方が当たっているかもしれない。
アトランタ旅行から帰ると、
伊豆のセミナーでお世話になった久司先生のスタッフの女の人から手紙が届いていた。
実は、久司先生にはもうすぐ入院予定があることを
話していなかったのだが、大久保先生には話していた。
すると、大久保先生が久司先生にお話ししてくださったということで、
「久司先生がとても心配していらっしゃるので、連絡をしてほしい」という内容だった。
母はさっそく久司先生のオフィスに電話をした。
その女の人は、
久司先生がアメリカで東洋のシュバイツァーと呼ばれている事、
マクロビオティックで病気を克服することが可能なこと、
アメリカのクシハウスで療養することも考えてみたらどうか?
などいろいろな話をしてくれたということだった。
最後に「マクロと西洋医学を両立させる事は難しい」と言っていたという。
また久司先生に関する資料もFAXしてくれた。
そして、久司先生が「宿泊先のホテルに電話するように」とおっしゃっているとのことだった。
母の心は揺れ始めていた。
いや、どんどんマクロビオティックに近づいていった。
数日後の真夜中、受話器にしがみつくように、
久司先生と話す母の後ろ姿があった。
翌朝、決意を固めた母に
「玄米を食べるだけで病気が治るものか!」という父の大きな声が響いた。

8.究極の選択

入院予定が近づく中、母は大きな選択を迫られていたのだと思う。
このまま入退院を続けて治療するとして、
医師に全てをまかせてしまうだけで良かったはずだ。
たとえ、病院まで片道2時間の道のりだとしても、
たいした問題ではなかったはずだ。
しかし、実際に病院の治療はまちがいなく僕の体に負担をかけていた。
治療の度に、僕の白血球は減り、もとに戻りにくくなっていた。
これからもこの治療を続けることに不安を感じているのは確かだ。
では、マクロビオティックを選んだとして、
母は、僕のためにつきっきりで、
僕の体調にあわせた食養の料理をつくらなければならないということだ。
それは、母が僕の命を預るのと同じぐらいの責任があることを意味する。
いったい、どちらを選んだ場合に、
僕の明るい未来が待っているのだろうか?
・・・究極の選択だった。
母が「入院をやめてマクロビオティックに賭けたい」と強く思い始めた頃、
父は治療をやめるなんてとんでもない」と反対していた。
母は思い余って、大久保先生に相談した。
「おふたりとも、お子さんが良くなるようにと、信じている道が違うだけで、
お子さんを愛しているという思いは同じなのよ。
ご主人の気持ちもわかるわ」という意外な答えだったという。
マクロビオティックを信じない父を、
母はもう少しで憎んでしまうところだったのだ。
母が父を説得できないまま、
父はアトランタの出張にでかけてしまった。
「あと1回だけ、治療をうけてくれ。それで俺の気持ちがすむから・・・」
ついに、入院の日がきてしまった。
僕の体に治療の準備のための点滴が入ってしまった。

9.最後の退院

母は、点滴の入ってしまった僕を見て、
とうとうがまんができなくなってしまった。
出張でアトランタにいる父に毎日電話をして説得したという。
・・・ついに、父がおれた。
そして、主治医への退院の申し込み。
今なら母の緊張がわかるが・・・
「ユウ君、今回はネ、すごく元気だから入院しなくてもいいって。あと3日で退院だよ」
突然、看護婦さんに言われた僕は
「いったいどーなってるんだ?」と信じられなかった。
が、とにかく嬉しくて点滴をつけたまま飛び跳ねて喜んでいた。
明日からあの辛い化学療法の治療が始まると覚悟していた日だった。
僕は知り合いの看護婦さん、検査技師さん、花屋さん、
会う人たちみんなに「退院です!退院です!」と言って回った。
嬉しかった。嬉しかった。
でも、本当にそれから以後
今日に至るまで病院に足を踏み入れる事さえないなんて夢にも思っていなかった。

 (母) 「あと1年、うまくいって5年、生きられたとしても、このままじゃ意味がないんです。」
(医師)「普通の親なら、今退院なんて考えませんよ」
    「お母さんは今、冷静な判断ができない状態のようですね」
・・・・母と医師との間でこんなやりとりがあったとは想像もしていなかった。
そんな中、僕はひとりうかれていたのだ。
その日の帰り、母は病院の駐車場からしばらく動けなかったという。
そして車の中から、
最初にマクロヒ゛オティックの本を教えてくれた秋田の母の友人に電話をした。
「これはマイナスからのスタートなんだよ。すっごい大変なことだけどがんばれ」
ついに僕達は西洋医学と決別したのだ。
1997年12月8日。
忘れられない日となった。

10.そして始まった

今回はたった1週間の入院だったのに、
家に帰った僕は、すごく懐かしい気分になった。
「お帰りー」と母は言ってくれた。
僕にとっては自由になれたことが嬉しかった。
だが、母にとっては緊張の始まりだったに違いない。
僕達は、もう一度、久司先生の食事を初めからやり直すことにした。
もちろん玄米菜食で、肉、魚、卵、乳製品、砂糖は一切許されない食生活が基本だ。
僕の症状に対する食箋は・・・
大根おろしと人参おろしに梅干1個、醤油少々を半カップ。
これを1週間は毎日、
その後2週間は隔日、
次の2ヶ月は3日に1回、その後は時々・・。
それから僕の症状に合わせたスープは、
干し大根3:干ししいたけ2:炒り玄米2を各3倍の水で沸騰してから20分煮たもので、
これを4ヶ月毎日1〜2杯飲むのだ。
そのほか注意として、
寝る3時間前には食事を終えるということだ。
豆類は少量にする。
海草は毎日とってもよく、
飲み物は三年番茶、茎茶など人参ジュースは週2回だ。
テーブルに用意するように言われたのは
12:1の割合の胡麻塩、梅干、鉄火味噌、ゆかり、のりなどだ。
母は大きな紙に書いて、キッチンに貼っていた、いや今でも貼ってある。
最初はこれさえ守りさえすれば元気になれると信じていたので、
辛い大根おろしや、味のないスープも我慢しようとしていた。
しかし、段々日がたつにつれ、
変わりばえのしない体調、執拗な母の態度、
おまけに今まで好きだったものがひとつも食卓にのらない食生活に
我慢ができなくなってしまっていた。
そのイライラはたった1週間でやってきた。
僕は「入院してもいいから何でも食べたい!」と泣き叫んでいた。
母は怖い顔をして、そしてもの凄い早さで荷物をまとめ始めた。
「そんなに食べたいのなら病院へ行こう!早く車に乗って!」と言って、
僕は外に連れ出された。
驚いた僕は、ただごとではすまない母の迫力に
「ママ、やっぱりマクロやる・・・」と小さな声で言っていた。
母は「がんばろうよ」と泣いていた。
「ママ、ごめんなさい」
でもまだ僕は「母に怒られるのは嫌だ」という思いだけで
心からマクロをやりたいと思っていた訳ではなかった。
母も父が出張中に退院の宣言をしてしまった手前、
かなり気負っていたので、僕にはとても息苦しい存在になっていた。
母との心のすれ違いはこの後もしばらく続くことになる。

11.楽しい小学校生活

僕は、勉強は嫌いだったが、学校は大好きだった。
みんなに会えるのがとても楽しみだったからだ。
実は、僕は小4の秋に、若年性の脳梗塞で左手足に麻痺がでて、
以来、少し不自由になってしまった。
そんな時も、クラスのみんなはやさしく、かいがいしく僕の面倒をみてくれた。
そして、小5の時、この病気になった時も、
治療のため髪の毛が抜けて登校したのだが、特にいじめにあった記憶はない。
母は心配して、僕に帽子をかぶせたのだが、
「実はぼくはハゲなんです!」とみんなの前でぬいでしまった。
先生もやさしくしてくれて、みんなも普通に僕に接してくれた。
頭痛に襲われて、保健室に行く時も、
かばんをもってくれる友達や送ってくれる友達がいた。
初めて一時退院で学校に寄った時も、
クラス全員が「カガヤン、がんばれ」と廊下に迎えにきてくれた。
うれしくて、うれしくて元気になれる気がした。
マクロをはじめて、お弁当になった時も、
毎日、「カガヤン、お弁当見せて」とのぞかれたけど、
そのことでいじめられたことはない。
学校は近かったが、まだ、体力がなかったので、
母が毎日車で送り迎えしてくれていた。
「おばちゃーん、乗せてってー」
いつも僕の面倒をみてくれる友達が二人、
にぎやかに乗り込んでくるのもうれしかった。
当時、一番楽しいと思える時間だった。
本当に感謝している。
・・・しかし、運命のいらずらというのか、
この二人は中3と高1の時に
突然亡くなってしまった。・・・・もういないのだ。

12.父が久司先生と会う

退院してから、2ヶ月ほど経った頃、小学校の卒業も間近になっていた。
2月には卒業旅行でディズニーランドにでかけることになった。
まだまだ寒い日が多く、学校でも頭痛に悩まされることが多かった。
そこで、母が一緒についてきた。
その日は天気がよかったので、頭痛は襲ってこなかった。
僕は久しぶりに楽しい一日をすごすことができた。
この日のことで、僕はかなり自信がついた。
「ママ、今日僕、元気だよね」と母に確認するのが習慣になっていた。
そして、僕は無事、小学校の卒業式にもでることができた。
その3日後、僕と母は2回目になる、久司先生の中伊豆の宿泊セミナーに出かけた。
前回、初めて参加した時は、母に引きずられるようにして行ったものだが、
今回は、自分でも不思議なくらいに、足取りも軽く、つらくはなかった。
何よりも楽しみだったのは調理実習で、ぼくははりきっていた。
この時もやっぱり、祥園先生と大久保先生が指導してくれた。
セミナー3日目は、3月24日。
実は僕の12歳の誕生日だった。
夕食の時、思いがけず、参加者全員で、
「happy birthday」の歌を歌ってくれた。
僕は最高に幸せを感じた。
昨年の11歳の誕生日は病院のベッドで、
母がひとりで歌ってくれたのを思い出していた。
「なんて、マクロはいいことばかりなんだ。」と思わずにはいられなかった。
そして、4日目の夜、
カンファレンスルームで久司先生の講義を聞いていた時、
突然、父が現れた。
母は父にも、是非久司先生に会って、
マクロについての理解を深めて欲しいと、誘っていたのだ。
仕事の都合で来られないのかと思っていたので、
僕はすごくうれしかった。
翌日の朝は、また、皆の前で健康カウンセリングだ。
久司先生がまた聞いた。
「お母さんのご飯おいしいでしょ?」僕ははっきりと答えた。
「はい。お母さんのご飯が一番おいしいです!」
その頃には、僕の好きな食べ物は「大根」になっていた。
帰りがけ、母に先生が声をかけた。
「ご主人は素晴らしいひとですね。」
・・・母は意味がよく理解できないように「そ、そうですか?」と答えていた。
先生のこの一言がきっかけで、母は父の良い所を探し始めた。・・・らしい。

13.久司先生との縁

セミナーも終わりに近づいてきた頃、先生の話の中で
親友が秋田にいらっしゃるという話がでてきた。
僕の両親は秋田出身なので「えっ?」と思って聞いていた。
先生の親友は秋田のあるデパートの社長で・・・・・・と話始めた時
「先生、その方は私の同級生のお父さんです!」
・・・なんと母が思わず声をかけていたのだ。
声を掛けた母も驚いていたが、周りのみんなも驚いていた。
先生は和歌山生まれということは良く知られているが、
中学、高校時代は秋田で過ごされていたのだそうだ。
その時以来の親友がその人らしい。
大学進学で、先生は東大、その人は別の大学へと
それぞれの道を選んだが、
交流は続いているとのことだった。
そして、もっと驚いたことに、
先生と僕の両親は同じ中学校だったということがわかったのだ。
つまり、僕の両親は先生のずっと後輩に当たる訳だ。
もちろん僕たち家族は急に先生が身近に感じるようになった。
その講義が終わってから、先生が近づいてきて、
「君のお父さんとお母さんは、千秋公園という
素晴らしい公園があるところで育ったんだよ。
君は行った事があるかい?」といって僕を抱きしめてくれた。
僕は以前秋田に遊びに行った時に、千秋公園を散歩して、
お気に入りの場所でもあったので、すぐに「ハイ」と答えていた。
セミナーから帰ってきて、母は興奮して、
秋田の母の親友に電話をかけていた。
最初にマクロの本を渡してくれた人だ。
すると、もうひとつ驚いたことに、
当時、先生のお母様が秋田のカトリック系の高校で
教師をしていたということなのだが、
その母の親友のお母さんはそこの生徒だったということだ。
そして、ある日、お母様の代わりに
若い久司先生が教壇にたったことがあったということも覚えていた。
いろいろなつながりがみえてきて、僕たちは鳥肌が立つような思いだった。
母は、自分が先生の中学の後輩であることがかなりの自慢らしい。
ちょっとうらやましい気もするが・・・。でも自慢になることなのか? 
もうひとつおまけは、母はそのカトリック系の学校の幼稚部に通っていたということだ。
これも縁になるかな・・・

14.久司先生からのプレゼント

1998年3月24日、中伊豆でのクシセミナー3日目、僕は12歳になった。
思いがけない参加者全員のバースデーソングに、僕は、はしゃいでいた。
そして、なんとプレゼントが用意されていたのだ。
それは、久司先生からのメッセージ入りの色紙だった。
「One Peaceful World 
 お誕生日をお祝いして かぎりない夢を求めて 
世界中で 大きな仕事を 遊んでくださるようにー!」 
と書いてあった。
これは、僕の宝物になった。
いや、家宝になった。
この時の僕には、メッセージの意味なんてどうでもよくて、
とにかく先生が僕のために書いてくれた、ということだけで最高にうれしかった。
「遊ぶ」という意味はそんなに重要なこととは思えるはずもなく、
「遊んでいいんだ」ぐらいにしか思っていなかったので、それも、うれしかった。
先生はセミナーの最後にいつも参加者に尋ねていた。
「みなさん、人間はなぜ生まれてきたのだと思いますか?」
みんな、難しいことを答えていた。
先生の答えはいつも「遊ぶためです」。
先生の意外な答えに、みんな一瞬シーンとなったのが印象的だった。
簡単すぎて、「なーんだ」と思う反面、
「どういうことなんだろう?」と気になる言葉だった。
母に聞くと、「病気なんてしないで、楽しく生きようってことよ」と教えてくれた。
この意味の深さは後からジワジワ気づくものらしい。
実は、もうひとつ大きなプレゼントがあった。
廊下で先生と会った時、「君はもう大丈夫だ。ちゃんとマクロの食事をつづけるんだよ」と声をかけてくれたのだ。
退院してマクロビオティックの食事をはじめてから3ヶ月くらいたっていた。

15.左手

久司先生に「大丈夫宣言」をされた僕は有頂天になっていた。
母が、先生に「手と足のリハビリをした方がいいですか?」と聞いた時、
「いや、しなくても大丈夫でしょう。ちゃんと食事で治りますよ」とおっしゃっていた。
僕たちは、この言葉を大きな勘違いをして聞いていたらしい。
僕たちは自然に治るものと思い込んでしまっていたのだ。
だが、先生は決して「なまけてもいいですよ」とはおっしゃらなかったはずなのだ。
僕は、時々おそってくる頭痛に怯えることこそなかったものの、
まだまだ頭痛に悩まされることが多かった。
そのことに気をとられて、手や足の不自由さなど
大して気にはしていなかったのかもしれない。
足の方は、段々歩けるようになってくるのが楽しかった。
だから、学校も、行く時は母の車で送ってもらっても、
帰りは調子の良い時は、ゆっくり歩いて帰ったり、
自分なりの努力はしていたのだと思う。
走れるようになった時には、母は手をたたいて喜んでくれたものだ。
だが、問題は手だった。
左手だったので、使わなくてもすむことが多く、
もしかしたら、僕は「自由に動かせるようになりたい」と
願うこともしなかったような気がする。
母が時々、「左手使って!」と注意してくれていたが、
僕はそれさえもうるさく感じていた。
後に、いろいろな先生との出会いがあって、
リハビリに励むチャンスはあったが、
結局のところ、僕のなまけぐせが災いしてか完治には至っていない。

そう言えば、先生は父に「奥さん、最近やさしくなったでしょ!」と聞いていた。
父は「・・・・・」と首をかしげていたが、
言われてみると、あんなに怒りん坊だった母が、最近やさしくなった気がする・・・・。
やっぱり、肉食をしなくなったからなのか?

16.不安と不満

「何もかも夢だったらいいのに、
病気になったことも、からだが不自由になったことも・・・」
僕は、はじかれるようにつぶやいていた・・・・・。
退院してからずっと「母の一生懸命さ」に僕もついていこうと夢中ですごしてきた。
が、時々限界を感じるようになっていた。
母は前向きで一生懸命だった。
食事のこともそうだが、マクロビオティックのことを理解しようと、努力していた。
マクロの人たちの集まりにも連れて行ってくれたり、
それはそれで、楽しかったし感謝もしていた。
だが、毎日のように襲ってくる頭痛、入浴をするたびに起こるめまい。
手につかない勉強、学校、テストのこと。
そして、食事のこと。
以前のように自由にならないからだの事などで、
実は僕の中では不安と不満が充満していた。
その上、母のただならぬ「一生懸命さ」は
僕には逃れられない恐怖のようなものも感じさせていた。
その時の僕には、母にグチをこぼすスキさえ与えられていないように思えたのだ。
母には僕の不安が見えていないような気がしていた。
僕は、だんだん嘘をつくようになっていた。
友人の家に遊びに行くと言って、近くのコンビニやスーパーで買い食いをした。
口の端にクリームをつけて帰って、嘘がばれたこともあった。
級友にも迷惑をかけて、母は担任の先生に呼び出されたりもした。
僕はすっかり心のバランスがとれなくなっていた。
本当に僕はこの苦しみからのがれられないのか?
ある日、僕はいつものように友人の家に遊びに行くと言ってでかけた。
行き先はコンビニだ。
サンドイッチを買って、歩きながら食べていた。
「祐輔!」
父が僕の後をつけていたのだ。
しまった。
僕は父に食べかけのサンドイッチをなげつけて、必死に走って逃げた・・・。

17.外食

相変わらず、母は毎日、手を抜かずに朝から晩まで僕のためにキッチンに立っていた。
僕には母が、マクロのお料理をとても楽しんでいるように見えた。
お休みの天気のよい日には、「外食しよう!」といって、
お弁当を作ってドライブにでかけた。
祖父母は、僕が入院中に、秋田から水戸へ引越してきていたので、
いつも賑やかにみんなでお弁当を広げた。
最初は近くの公園だったが、時には車で1時間ほどの公園まででかけた。
僕はこんな「外食」が結構気に入っていた。
それから、レストランでもないのに、家のテーブルには、メニュー表があった。2種類のコースがあった。
「スーパーミラクルライス・パワフルスープ
       ・スクランブルベジ・ベジローフ・ヘルシーサラダ・オリジナルデザート」
もうひとつは
「パワフル玄米ご飯・おっかさん風味噌汁・まんぷく野菜煮
    ・ツブツブ野菜の力こぶ風・シアワセ混ぜ野菜・きまぐれデザート」という具合だ。
何のことはないきんぴらごぼうや切干大根のことなのに、
母がネーミングするとこんな風になっていた。
いかにも素食と言った感じで以前のような華やかな食卓というわけではなかったが、
なぜか楽しかった。
地味なおかずなので、だんだん母は食器にこだわって、
盛り付けに工夫をしていたようだ。
そして、良く噛むようにと、一口ごとに箸をおいていたので、
箸置きも集めだしていた。
ミレットの箸置きがたくさんあるのはその時のものがほとんどだ。
出かける時には、玄米のおにぎりと三年番茶の小さ水筒を持ち歩くのが定番だったのだが、
しばらくして後に、知り合いのうどん屋さんに、本当の外食にも行くようになった。
この時は、かつおだしや砂糖を避けるために、
母が昆布としいたけと醤油だけでたれを作って水筒に持っていった。
そして、テーブルの下でたれを差し替えて食べた。すごいスリルだった。

18.お肉が食べたい?

「ねえ、ママ。僕は一生お肉が食べられないの?」
すると、近くに座っていた男の人が声をかけてきた。
「大丈夫だ、ユウスケ。そのうちお肉なんて嫌いになって、食べたいなんて思わなくなるから」
1998年の大久保先生のお宅で開かれた新年会でのことだ。
退院して1ヶ月ぐらいの頃だ。
大久保先生や先生のお教室の人たちが用意してくれたマクロのお料理がテーブルいっぱい並んでいた。ビュフェスタイルで、好きなお料理を取って食べることができた。
どれも、普段母が作ってくれる料理よりも、きれいで、おいしかった。
でも、僕にはある期待があった。
マクロのセミナーはともかく、パーティ料理なんだから、
お肉くらいはあるんじゃないかなと・・・。
やっぱり、ない。
まだマクロビオティックを理解していなかった僕は、病気が治ったら、
またお肉や甘いものが食べられるんじゃないかと密かに思っていたのだ。
思わす不安になって口をついて出てきた疑問だった。
実は、母はこってりお肉が大好きだったので、
母もお肉を食べたいという欲望は強かったのだと思う。
「早く、お肉が食べたくないって思えるようになれたらいいね」が、
母と僕との合言葉のようになった。
そして、数ヶ月もすると、お肉を焼く臭いが本当に気になって、
食べたいと思わなくなっていた。
スーパーのお肉コーナーも避けるようになっていた。
大久保先生の家のハスキー犬の歳三君が玄米食と聞いて、
その日から、我が家のシーズー犬のアトランも玄米食をはじめることになった。
最初は「クーン」と言って後ずさりしていたが、
数日すると食べるようになった。
以来、アトランは玄米ご飯が好物になった。
久司先生は「犬も玄米食にするとおとなしくなる」と言ってたけど、
効果はあったのだろうか・・・?

19.北枕

僕がマクロビオティックと出会ってから、
日に日に元気になっていくのがわかった。
だが、まだ頻繁に頭痛に襲われていた。
セミナーでは母が久司先生に
「先生、頭痛がまだ起きるのですが、治るでしょうか?」と聞いていた。
先生は「大丈夫。そのうちに段々と治っていきますよ」と答えてくれた。
こめかみを刺すような痛みは、それからも数年僕を悩ませた。
始めは不安だったが、先生のその言葉を信じて、
「絶対に治るんだ」と思えるようになっていた。
先生のアドバイスで、「北枕で寝なさい」と言われた。
それを聞いていたほかの人が
「先生、北枕は亡くなった人にするんでしょう?」と、一瞬ざわついた。
北半球に暮らす人は北のほうからエネルギーが入ってくるので、
北枕のほうが良いのだそうだ。
亡くなった人が北枕にするのは、せめて亡くなった時だけでも、
よいエネルギーが入るようにという昔の人の直感の風習の名残なのだそうだ。
みんなは「へー」と言う感じで驚いていた。
セミナーから帰ると、早速部屋の模様替えが始まった。
実は僕も両親も真反対で寝ていたのだ。
そして、両親の寝室と僕の部屋は隣同士だったので、
壁を隔ててベッドを近づけた。
夜に頭痛が襲ってきた時には壁をノックすると、
母がすぐに飛び起きて来てくれた。
首をマッサージして、手を当てておまじないのようにしてくれた。
僕は安心していつの間にか眠っていた。
その頃は母は夜にゆっくり眠ったことがなかったという。
それから、「おうちの中に緑の木を置きなさい」とも言われた。
そういえば、うちには緑の木がない。
先生には僕の家の中がお見通しらしい。
他の参加者も「玄関の横の荷物を片付けなさい。」と言われていた人がいた。
すごく驚いた。
そして、大きな「幸福の木」がリビングに登場した。

20.スプーン曲げ

最初に、母にマクロビオティックを教えてくれたおばさんは、
母の小学校からの友人だ。
いつも「君はすごいんだよ」と僕のことを励ましてくれた。
しかも美人で、僕はこのおばさんが大好きだ。
母も頼りにしていて、何か困ったことがあると、
長々と電話して相談していた。
一度、秋田に行った時に、僕はおばさんの家に泊まりに行った。
おばさんは僕を特別扱いではなく普通に接してくれた。
そして、いろいろな話をしてくれた。
おばさんと話していると、不思議と心が開放されていくのがわかった。
翌日、母が迎えに来る前に、おばさんは「気」の話しをしてくれた。
その中で、僕にスプーン曲げをさせてくれた。
「ユウチャン、これ曲げてごらん。ユウチャンだったら曲げられるよ」
僕は素直に「このおばさんの言ってることだから曲がるんだ」と思った。
スプーンは曲がった。
そこへ母が現れた。
おばさんは、今度は母に「これ曲げてごらん」とスプーンを渡した。
母は驚いて「えー、曲がらないよ」と言った。
するとおばさんは、「大丈夫だよ。ユウチャンも曲げられんだから」と言った。
母はほっとしたようにスプーンを曲げ始めた。
「ほら曲がった。できないと思ったけど、
ユウチャンが曲げられたって聞いたら、自分でもできると思ったでしょ?」
母も見事に暗示にかかったらしい。
「絶対にできないとおもっている人はどんなに暗示をかけられてもできないんだよ。
でも、できると思ったらできるんだよ。病気を治すのも同じ。
治せると思ことが大事だよ。ユウチャンならできる。大丈夫だよ」
母の固い思いが溶けていくようだった。
そして母はその帰りに閉店間際のデパートに寄って、
安いスプーンを買いあさった。
しばらく母のスプーン曲げは続いた。
こんな単純な母を僕は嫌いではないが・・・。
それからだろうか、
頭痛の時に母がかざしてくれる手から温かいものを感じるようになった。

21.祖父母の引っ越し