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訪問をありがとうございます。
今日は、午前中にご近所ミニデイがあり、午後はひたすら資料作りに専念していました。
あ、今日のご近所ミニデイは、『話し相手がほしい』とのことで、新しい仲間が西大島からバスに乗って来てくれました。
少し遅れたおひな様をしたりと、それはそれは優しい時間を過ごすことができました☆
さて、今日は『認識共同体』について書いてみます。
きっかけは、『東洋経済オンライン』を呼んでいる時にちょうど『分断による民主主義社会が危うくなる』という記事を読んだことです。
この『認識共同体』とは、社会学者のピーター・ハース氏が考えた概念で、『同じ考えを持った集団』という意味です。
日々生活する中で、私たちは同じ人たちばかりと過ごしていると、似たような思考になります。
もしくは、似たような思考の人が集まって何かに取り組んだりします。
これは、物事が円滑に進むうえでは便利・快適なのですが、悩ましいのは『同じ思考の人ばかりと接すると、自分たち以外の意見を理解できなくなってしまう恐れがある』ということなんです。
以前『日本の常識は世界の非常識』と言われたこともありますがそんな感じです(雑な説明ですみません)。
自分の選んだ環境で快適に過ごすことで、『自分の世界が世間の常識』となってしまうというわけです。
・・・とまぁ、認識共同体自体は多かれ少なかれ誰しもある状況だと思うのですが、悩ましいのは、その『自分の常識を絶対視して他の意見を聞き入れることができなくなること』です。
そういう人は結構いるし、私自身も意識しないとそうなってしまいます。
そうすると、ここ数年SNSなどで顕著なように、ニュースを観ては誹謗中傷をしたり相手を批判したりと、攻撃的になってしまうのですね。
攻撃性の少ない人は、『あいつら、本当に社会をわかってね~な~』的な上から目線が発信されます。
これ、攻撃性も嫌ですが、もっと怖いのは『話がかみ合わなくなる(話し合いができなくなる)』んですよね。
例えば、『貧困対策』について考えた時。
資産家の一族に生まれた人は貧困者を想像できないだろうし、苦労してお金持ちの人になった人は貧困者に対して『努力が足りない』と思うだろうし、貧困者は頑張ってもどうにもならないことを嫌っていうほど知っているので『ムリゲー』って思う。
このかみ合わなさ、わかってもらえますか?
3タイプを挙げましたが、例えば、この3人が同じテーブルでなにかの議論をする時、話がかみ合うことは極めて難しいでしょう。
それぞれのタイプの人が政権を握ったとしたら、恐らく政策は全く違うものになるでしょう。
こんな感じで、いつも『自分が心地よい空間』にいると、そことは違う世界の人の存在を知っても、その人に対して想像力を働かせることが、とても難しくなってしまうのです。
・・・話は戻りますが、東洋経済オンラインでは認識共同体が及ぼす影響について書かれた際に、その罠にはまらない方法として『近所の人と仲良くなる』ということを挙げていたのです。
これ、まさに私がいつも主張していることなのです。
地域って、金持ちもいれば貧困者もいて中流の人もいる。
様々な人が『土地』だけで結ばれている関係なのです。
だからこそ、その中でたくさんの人と交流することが、自分の『認識共同体』という思い込みのフレームを外し、同時に、様々な人に対しての想像力を育むのです。
そんなことを改めて考え、『あぁ、良い記事を出してくれてありがとう、カズオ・イシグロさん』と思いました(・・・ってか、なぜ『いしぐろかずお』さんじゃないんだろうとも思いました)。
社会にはたくさんの人が住んでいて、それぞれ価値観を持っていますが、皆さんは他者の考えをどこまで受け入れることができますか?