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訪問をありがとうございます。
今日は2回目の更新です。
これ・・・書こうかどうか迷って“書かない方がいいかな”と思ったのですが、やっぱり書いた方が良いと思い、更新することにしました。
とある会での出来事です。
質疑応答の際に、明らかに回答者が答えられない質問を投げかけた方がいました。
回答者はガチガチの組織で動いている方ですが、その役職を担って半年たっていないため、一生懸命勉強していますが数年間活動している人に比べると、どうしても知識不測や理解不足があり、本質を踏まえた議論というのは困難な状況は明らかです。
また、質問を受けても組織としての返答となるため、回答者は安易に“こうです”とは言えない状況にはありませんでした。
そう。
質問者は“質疑応答”という名の通り確かに質問だったのですが、正論を述べた後に明らかに回答者が答えられない“質問”を投げかけたのです。
表情が硬くなる回答者。
フォローしようとする事務局。
一層興奮する質問者。
質問は、正に痛い所を突いており、きっと会場にいた方々は“確かにそうだよね”と思った内容だったと思います。
ただ、回答できない状況もわかるわけで、そんな時、質問者が逃げ場をつくらずに攻め続けるのは、もしかしたら一生懸命なあまり、優しさを忘れてしまったのかもしれないと感じました。
そして、こういう状況はたまに見かける光景です。
私は、個人的に質疑応答は何を質問しても良いと思っています。
今回の質問者は他意はなく、熱心なあまりグダグダの説明にジレンマを感じて興奮していったこともわかります。
質問自体は、非常に的を得ていました。
だからこそ、“もったいないなぁ”と思うのです。
正論って、時には正しすぎて相手を追い詰めてしまうことがあります。
そして、物事はどんな場合でも“逃げ場”って必要だと思うのです。
正論で相手を追い詰めてしまっていることに気づいた時、少しの優しさで“逃げ場”を作ってあげることは、様々な価値観や役割を担う人の集いでは、大切なことだと思います。
今回の件で考えると、質問者が行うことは、“質問を通じて回答者に考えるきっかけを与える”ことであり、それを“行動に繋げるために働きかける”までで良かったのです。
厳しいことは伝えてもいいんです(言わなきゃわからない人はいるし)。
ただ、一方で、回答者に対して“この人は質問に答えられる能力があるか?”を見極め、質問をする必要もあると思っています。
でないと、せっかくの良い質問も“我の強い人の自己主張”になってしまう時がありますから。
地域など、生活に密着した場での話し合いは、それぞれの立ち位置や価値観で“正義”の違いが強く影響されます。
これは、生活の場に限った事ではありませんが、自分が守りたいと思ったものに対しては、ついつい真剣になり過ぎて余裕がなくなることがあります。
だからこそ、時にその正義はやっかいで、正解がない分お互いが優しさを持って受け入れ合わないと、批判合戦になりかねないのです。
『正義の敵は、これまた正義である』
これは私が社会人になる前に両親からよく言われていた言葉ですが、最近はそのことを実感することが増えました。
そして、私自身この言葉を忘れずに、自分の正義は持ちつつ他者の正義も受け入れる人になりたいなと、改めて感じました。
何のオチもない更新ですみません。