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訪問をありがとうございます。
昨夜は主任ケアマネ会の立ち上げに伴う会議がありました。
この会で毎回感じるのは、『主体的な取組に勝るものはない』ということ。
今回もたくさん勉強させていただきました☆
さて、以前から書いていますが、私は『規則(ルール)ですから』という言葉が嫌いです。
普段はできるだけ好き嫌いをはっきりとは言わないようにしているのですが、この言葉だけは嫌いなんです。
で、今日は、なぜこの言葉が嫌いかについて書かせていただきます。
突然ですが、皆さんは『ハンナ・アーレント』という人をご存知でしょうか?
この人はアメリカの政治学者(哲学者と言う人もいます)なのですが、ドイツ生まれのユダヤ人で、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画の指揮者であったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴して、『悪の陳腐さについての報告』という本を出しているのです。
その中で彼女はこう主張しています。
『悪とは、システムを無批判に受け入れる人である』と。
その上で彼女は『陳腐』という言葉を用いて、このシステムを無批判に受け入れる悪は、誰でも犯す危険を孕んでいる』としています。
つまり、『自分で考える』ということを放棄してしまった人は誰でもアイヒマンのように『無意識に悪事に手を染める』可能性があるということです。
そして、彼女は『だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならない』のだと主張しています。
多くの人は、現行システムがもたらす悪弊そのものに対してにどうしたら良いかを考えるよりも、システムのルールを見抜いて、その中で『うまくやる』ことを考えてしまうと言われています(だから、書店ではハウツー本が流行るのですね)。
実際、今の日本ではそうしている人の方が楽だろうし、上手に生きているなぁ~と私も感じています(外国を知らないので、日本に限定させていただきます)。
また、アイヒマンで思い出して今調べたのですが、心理学では『人が集団で何かをやる時には、個人の良心は働きにくくなる』という結果が出ています。
これは、『アイヒマン実験』と呼ばれる実験で明らかにされたことですが、要は『「自分は単なる命令執行者に過ぎない」という主催者への責任転嫁が、個人の意思で動いている意識を低下させ、どんな酷い事でも抵抗なく行ってしまう』というものです。
今の社会にありがちな、官僚制(公務員だけでなく権限とルールによって実務が執行されるという体制)と過度な分業体制は、正にその最たるもので、悪事をなす主体者の責任が曖昧な状態になればなるほど、人は他者に責任を転嫁し、自制心や良心の働きは弱くなることが立証されています。
私が『規則ですから』という言葉を嫌う理由はココです。
物事の『なぜ?』を理解せず、それが妥当かも自分の中で検証せずに出る言葉が『規則ですから』なのです。
この言葉は本当に無責任に人の思考を奪う魔法のコトバだと思っています(皮肉です)。
そもそも規則なんて集団生活を円滑に進めるための手段でしかなく、時代や状況が合わなければ変えてゆかないといけないものなのに、その規則の妥当性を検証することなく相談を終わらせたり、次のアクションに移す思考を止めてしまうのです。
つまり、私は『規則ですから』の言葉は、人の思考回路を停止させてしまうだけの言葉であり、その実害を自身で感じることなくまき散らす行為は、迷惑以外の何物でもないと感じているのです。
とはいえ、私は『規則です』の言葉全てを否定しているわけではありませんし、ルールは集団で生きていく上で大切だと考えています。
何が言いたいかというと、ちゃんとルールの意味を理解していれば、相手の相談等を「規則ですから」の一言で終わらせることはないだろう、ということです。
そして、相手を見せかけの正論で思考停止にすることなく、丁寧に説明をした後、相手の相談もきちんと聴き、再度、規則自体を見直し、どうしたら良いかを考え行動することができるのではないかと思うのです。
・・・と、そんなわけで、規則やルールを活用する時は、ルールの意味を理解し妥当性があるかも考えながら活用することが大切なんじゃないかなぁ~、なんて思ってしまう私でした☆
追記:アイヒマンは数年前に映画化されています。
訪問をありがとうございます。
昨日は家族とマッタリ過ごしながら充電した私です。
今週は夜の活動がたくさんありますが、集中力を切らすことなく取り組みたいと思っています。
さて、昨日、山口周さんの記事で『世の中で売れているモノは、「役に立つ」というベネフィットか「意味がある」というベネフィットのどちらかがある』という言葉があり、“まぁ、そうでしょうね”と納得しました。
で、ですね、この山口さんの視座に私が感動したところは、『役に立つ・立たない、意味がある・ないという4分割で各事業を捉えた時に、どの分野に自分達は入るのかを理解することが重要』という部分と、『大切なことは「どこが強豪として生き残れるか」の視点で自社事業を見直せるか?』という部分です。
そして、『役に立つものは1個で良いけど、意味があるものは多様化した方が良い』と結論付けている部分です。
これ、何気なく読み飛ばしてしまいがちな部分ですが、資本の重要な部分だと感じています。
つまり、『役に立つけど意味がない市場で戦うことは思いっきりレッドオーシャンの中を泳いでいるわけで、そもそも資本がない企業に勝ち目はない』ということで、逆に『考え抜いて自分達の事業に意味づけが出来ているところは勝算が高い』というわけです。
私は言葉が稚拙なためうまく表現できていないかもしれませんが、いわゆる『ニッチ産業が狙え目だから』とか『自分の事業に意味をつけた方がうまくいく』という結論だけをもって上っ面の意味づけをしても意味がないわけで、なぜ意味づけをしないとこれからの競争に生き残れないのかをちゃんと理解し、その上で戦略的に自社の事業一つひとつを考え実践していくことが大切ということです。
というわけで、今日は現在取り組んでいる(取り組もうとしている)一つひとつを振り返ってみたいと考えている私でした☆
訪問をありがとうございます。
昨日は長文を書いたため、今日は短めに☆
以前、何かの動画で観たか聴いたのですが、『子どもって親の話を聞いて育つのではなく親の行動をみて育つ』ということがあるようです。
で、ですね、我が家の子ども達3人は、何というか・・・ピシッと芯の通った子どもには育っていないわけです。
3人の共通部分は、
基 本 、 ダ ラ ダ ラ し て い る (但し遊ぶ時は別)。
何でだろう???と不思議で仕方がなかったのですが、最近その理由がわかりました!
私が自宅ではダラダラしている(というかいつも寝ている)からなんです。
私は一部の能力は恐らくそれなりに持っていると自負しているのですが、人間が生きていく上で一番肝心な『生活能力』が著しく欠如しているのですよね。
で、夫はそのあたりがしっかりしている為、夫に全てを指示してもらいながら家の中では生活しているわけで。
いやぁ、家の中で休日でも起きたらすぐにパジャマから洋服に着替える奥様とか、休日でも朝イチでお化粧するお母様とか、本当に尊敬しています!!!
・・・とこれを書いたら二度寝をしようと目論んでいる私でした☆
皆様、素敵な休日をお過ごしくださいませ。
※どうでも良い話ですが、先日長男と進路の話になった時、『もっとしっかり考えなさい!自分の人生でしょ!!!』と言ったら、『俺よりむしろお母さんの方がしっかりしなよ!!!』と言い返されてしまった私。ぐうの音も出ませんでした(トホホ)。
訪問をありがとうございます。
今日は午後から東京都の市部(西東京方面)での研修委員会のお手伝いを行います。
連休明けから土曜日は夜の帰宅が続いていますが、家族の「 誰 か ら も 」寂しがられることのない私って・・・。
まぁ、帰宅している間は5人で一緒にいるので良しとしています(不思議なのですが、我が家は自室に籠る人が誰もいないのです)。
あ、ちなみにその中心にいるのは夫で、夫の近くにいる結果、皆が一緒にいるという感じです☆
さて、今日は自分の頭の中を整理する意味で書かせてください。
あ、今日は辛らつな文章になっていますので、心穏やかな気持ちでない方はスルーしてください。
一昨日衆議院本会議で行われた丸山穂高議員の糾弾決議に小泉進次郎君が乗らなかったという件について、彼の意見を読み「その通り」と思った私です。
このように、昔からかもしれませんが『メディア・世論が特定者を袋叩きにして潰そうとする』ということが、往々にして日本では見受けられます。
しかもエスカレート傾向にあるわけです。
で、ですね、私はこういう一辺倒的な『過剰ともいえる正義感』で『みんなで言えば恐くない感』というものを、非常に気持ち悪いと感じているわけです。
持論を『意見』として論理的に書くのは良いと思うのです。
でも大半はそうではなく、匿名で感情だけを垂れ流すというか・・・(しかも攻撃的に)。
例えば、先に書かせていただいた丸山議員に関しても、『ケシカラン!』『あんな奴は議員をすべきじゃない!』という声が挙がります。
一部大手企業の育休にまつわる転勤についても、『こんなに社員のことを大切にしない企業はケシカラン』と怒るわけです。
川崎市の通り魔事件では『無関係の人や幼い子どもを道連れにするなんてケシカラン!』『一人で死ねばいいのに!』とか、たくさん書かれているわけですよ。
そして、それを個人の意見として還元するコメント(『一部の方の感情を煽るような発言はどうでしょう』)に対しても袋叩きにしてしまうわけです。
匿 名 で 。
こんな感じで、感情の垂れ流しというかダダ洩れ現象が至るところで起きているわけです(ネットの普及でその広がりは急速に強まっています)。
これ、一部は悪意での行為でしょうが、大半は無自覚で行っているんじゃないかなぁ~と感じており、読んだ相手や周囲のことを慮れない人が増えているこの社会に寂しさを感じます。
もしかしたら、自分が読み手となったと想像してコメントを読み返すという思いやりや配慮は、今の社会では少なくなっているのかもしれません。
今のネットでは記事やコメントを書くこと自体は別に自由なので、感情を出そうが何を書こうが自由だと思っています。
が、こういう『自分は安全な場にいて、寄ってたかってその人の言動を批判するのではなく人格までも批判してしまう社会って、いったい何だろう?』と思うのです。
優しさを感じないのですよね。
先の例で言うと、『丸山議員の今回の発言は〇〇という部分に於いて△△ではないか』で良いと思うのです。
大手企業の待遇も『育児休暇を申請したら転勤という対応については、もう少し社員の状況を加味しても良いのではないか』で良いと思うのです。
※今回の川崎の事件に関しては、ご遺族の心境を思うとコメントを控えさせていただいた方が良いと思うため記載しません。
これらに対して私は始め、『なんでこの人たちは、自分が匿名という安心な場にいながら、ここまでケチョンケチョンに他人のことを叩けるのだろう?』『なんでわざわざ怒りを増殖するような場に入り込むんだろう?』と不思議でなりませんでした。
もとい、自分事でないことに対して、そこまで怒りを露わにして攻撃的な文章を書く方々を理解できなかったわけです(語弊があるかもしれませんが、自分の行動につながらない事なら他人事でしょ?)。
そして、どんな投稿もコメントも人と会って話をする時も、『素晴らしい意見や正論をいう方』が本当に多いのですが、振り返って実社会をみてみると、社会は一向に優しい社会になっているという肌感覚は持てません(むしろ変な一部の声を拾って規則ばかりが増えているから窮屈)。
考えてみてください。
政治家を叩く人は多いけど、投票率は下がっている。
公務員や大企業の仕組みを批判する人は多いけど、就職希望数は向上している。
引きこもり等社会課題はどうにかしなきゃと正論を振りかざすけど、その対応は国や行政に丸投げする。
が、何となくわかったことは、『あぁ、もしかしたら、自分の課題から逃げていることに目を背けたいから、他人様のことを叩くことで正義感を全うした気になっているのかもしれない』というように思いました。
もしくは『良いこと言っている私』に満足して、行動までつなげることができないのかもしれません。
自分自身のストレスを勝手にニュースに重ね合わせて、ストレス解消しているのかもしれません。
何でも良いのですが、そういう人もいるのだということを理解してスッキリした私です。
とはいえその輪の中に入りたくないと思う私は、最近はいつもコメントまで読むニュースソースを1つに絞っているのですが、それだと思考が狭まると思うので、時々世間一般的に開放されているサイトも閲覧します(ちなみにそのサイトは、実名はもちろん勤務等所属先まで明確になっており、様々な意見がありますが感情垂れ流しではなく意見として、自分の言葉に責任を持って丁寧にコメントをしています)。
難しいかもしれないけど、安全なところから集団で石を投げて頑張る誰かを潰したり冷笑したり攻撃するような社会は明るくなるわけがないと思うので、もうちょっと緩くて優しい社会になれば良いなぁ~、と思いました。
訪問をありがとうございます。
一昨日夜は何だが眠れなくて、睡眠1時間で都庁に行ったら、まぁーーーーーーしんどかった!!!!!
睡眠は大切だなぁ~、と実感しつつ、昨夜はたっぷり眠った私でした(今は脳みそフル稼働です)☆
連休明けから土曜日も出勤が続いている為、無理はしなようにしたいと思います。
さて、今日は先日ちょろっと書いた『人生100年時代、年金頼み限界』について書かせていただきます。
金融庁の金融審議会が3日、長寿化に伴う資産形成を促す報告書をまとめました。
というわけで56ページの報告書を読んだのですが、男性が65歳以上、女性が60歳以上の夫婦の場合、年金収入だけでは月に5万円の赤字になるとのこと。
これ、2人で263,718円必要という前提での試算で、『1月5万円強足りないから、95歳まで生きるとなると2500万円弱は必要よ』という内容なのですが、恐らくニュースでは『年金だけでは足りず2千万円以上の貯金必要!!!』みたいな不安を煽る内容をニュースは流しているんだろうな、と勝手に予測しています。
で、これってある意味詭弁だと思うのです・・・というより、冷静に考えたら、それほど悲観する必要がないと思うのですよね。
だって、2人で5万円強とした場合、1人3万円の収入があれば良いわけですから。
そして、その3万円は別に節約してやりくりしても良いし、頑張って稼いで生活レベルを維持しても良いわけで。
冷静に考えてみてください。
65歳で定年後から70歳まで、1人9万円(5年間で月の3倍分の収入を)稼ぐことができれば85歳までは生活レベルを維持しても過ごせるわけです。
で、85歳になる頃には、恐らく旅行や娯楽にお金を使うことは65歳の頃と比べると減ると思うのです。
ね?何となくやっていけると思いませんか?
ちなみに我が家は、同じくらいの金額でローンを払いつつ、家族5人で生活できていますよ。
・・・というわけで、個人的には年金足りない云々よりも、無責任な不安を煽ることで世の中で経済の回りが悪くなり景気が悪化する方が恐いと感じています。
自身の資産計算をする事は大切ですが、経済を回していくことも、とてもとても大切です。
だから、必要以上に不安になるのはやめましょう☆
で、ですね、次は『じゃあ、65歳以上の年齢で無理なく働くっていってもどうすりゃいいんだよ?』と思った方にご提案です。
これは行政の協力も必要なのですが、『地域の緑化活動や美化活動、小学生の通学見守り等』の今まで無償で行われていたボランティアに予算をつけて『有償ボランティア』で収入を得るということを提案したいと考えています。
今の社会はとても不安定で、信用社会が崩壊しているため、監視社会、もしくは過剰な自己責任社会に進もうとしています。
これ、楽しくないですよね?
そして、引きこもりの方々を含む(形ばかりの)支援にお金を投資しようとしています(個人的に、今の根深いこれら複合的な課題を解決できる力は、例え専門職でも持っている人はいないと感じています)。
であれば、(悪い意味でなく)受け身感覚の公務員さんや専門職にお金を投資するより、地域の元気シニアに地域のことを任せた方が、安心社会を築くことができると思うのですよね。
元気シニアは『自分達の地域を守る』という役割は持てるし、そこで収入を得ることもできる。
うまくいけば、引きこもりの方々も、人間関係や過剰なノルマに悩むことなく、元気シニアに混じって地域活動をすれば良い(そして、そこから人間関係に慣れたら就労を考えれば良い)。
現役世代は、自分達の留守中も高齢者が自分のまちを守ってくれていると思えば、税金を払うことにも抵抗感が減る。
行政は過剰なリスクにおびえながら形だけの『やってますよ~パフォーマンス』をしなくても、地域の元気シニアに投資することで、彼らに地域を委ねることができる(責任回避できる)。
また、この元気シニアが地域を守ることで、シニア間で『顔の見える関係つくり』ができるため、相互扶助が実現するのですよね(社会保険料の削減)。
イロイロな意見があると思いますが、今のところ私はこの考えを一押ししています☆
ダラダラ書きましたが、まとめると『人は安心できる居場所と社会に役割を持ちながら生活するから楽しく前向きに生きることができる』と私は考えているのです。
社会保障関連のニュースを観る限り、不安は生まれるかもしれませんが、それでも未来は明るく描き『私、地域でどんな役に立てるかな♪』と前向きに考え行動した方が、社会は明るくなると思うのですよね☆
こんな考え、いかがでしょう?