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訪問をありがとつございます。
昨日は、サービスBを行い皆さんに元気をいただきました。
そして夜は職能団体の研修で、大好きなWさんの講義を聴かせていただき、地域を見据えたアセスメントについての大切な視点を学ぶことができました。
実践に紐づけられる研修は大変得るものが大きいです(2回目は9月に新宿Bizで行われますので、興味のある方はぜひ!)☆
会社のみんなは、私がいなくてもきちんと事務所を回してくれています。
いつも感じますが、私は周りの方々に恵まれているなぁ~と思います。
ありがたいですね☆
さて、今日は、長女と次男の運動会でこの後出かけますので短く。
日頃から思うのですが、人との会話って本当に大切だと感じています。
数日前に書かせていただきましたが、ヘーゲル先生は対話の際に『愛を持って行うことが何よりも大切である』としています。
これ、私は強く共感しています。
物事を二項対立で考えると、相手の考えを自分に変えさせようとしてしまい争いになります。
が、一方で「自分の考えも良し。相手の考えも良し」という気持ちで対話をすると、そこから発展的な意見が生まれやすいと言います(これを弁論法と言います)。
日本には『三方よし』という言葉がありますが、正にこの精神だと思うのですよね。
私は、日本人の持つ『こだわりを持たない寛容性』はこれからの時代にとても親和性が高く、世界にとってお手本になると感じています。
自分も相手も尊重できる社会になれば、それが優しい社会になるだろうと思っており、そういう社会を見てみたいと思いながら、日々地域活動に取りくんでいます。
皆さんは、どんな社会で生活したいと思いますか?
訪問をありがとうございます。
昨日は三鷹で行われた「東京ホームプロジェクト」のプロボノの説明会に参加をしてきました。
そして、その説明会でたまたま隣に座った方と終了後話が弾み、連絡先交換をしたくせに「ちょっとお茶でも」となり、1時間以上お互いの地域活動について情報交換をしました(初対面でいきなりお茶できる自分が好きです)。
いやぁ、本当にたくさんの学びと気づきと元気をいただきました。
そして、そのテンションで午後から地域活動のお手伝いに来てくださった方の邪魔をして、『今度は加藤のいない時に私来ます』と言われてしまった私です(ホント、いつも邪魔してごめんなさい!)
人との出逢い、交流は宝ですね☆
さて、昨日は「なんで今の社会は生きにくいと感じるようになったのだろう?」について考えまてみました。
そして、一つの答えとして『規律から規則重視に変わったことが生きずらさに拍車をかけたのではないか?』という結論を出してみました。
今日はそのことを書かせていただきます(あくまでも私の勝手な妄想です)。
まず、この2つの言葉について書かせていただきます。
規律とは、「1社会生活・集団生活に於いて人の行為の基準となるもの。また、そのようなものとしてのさだめ。おきて。のり。2一定の秩序。きまり」となっています(三省堂大辞林先生より)。
一方で規則(ルール)というものは、「人の従うべき基準であり、主に文章によって規定されたもの」と記されています(Wikipedia先生より)。
つまり、この2つの違いを簡単に書くと、「自分の物差しか社会の物差しか」の違いかな?と私は捉えています。
で、ですね、今の社会を窮屈に感じてる人が多いということをよく聞くのですが、これは「社会が規律→規則に変わってきていて、それが過剰になりつつあるからではないか?」と思うわけです。
言い方を変えると、「規律にある余白がなくなり、何でも白黒はっきりつける規則重視が息苦しさを生んでいるのではないか?」というか。
答えがないものって考えなきゃいけないから面倒くさいんです(常に“今どうあるべきか?”を考えなきゃいけない)。
しかも、明確な正解がないから、自信を持って断言することに勇気がいるのですよね。
面倒くさいうえに勇気がいるのが「規律」です。
ただ、良い面もあり、それは『自分で決めることができる自由がある』ということです。
一方で、規則は白黒はっきりしている為、自分で考える必要はありません。
規則を軸にジャッジすれば良いだけなので、まぁ楽ですよね。
ただ、悪い面もあり、それは『ルールに自分を合わせるため自由がない』ということです。
規則が白黒だったら、規律は玉虫色みたいな感じです。
介護保険を例にして、規律から規則に変化を具体的に書かせていただきますね。
『走りながら創る制度』として始まった介護保険は、創設当初はルールが少なく、個々の判断に委ねられている部分が多かったです。
これはある意味根拠と呼ばれる大義名分づくりが大変だったけど、ご利用者の意向を聴いてルールを“上手に解釈”する『余白』がありました。
が、ルールが細分化され増え、どんどん制度が白黒はっきりになると同時に余白はなくなり、“上手に解釈”することはできなくなります(同時に考えなくても良いので思考も低下する)。
また、介護保険でサービス提供と引き換えに地域資源を激減させてしまった今、介護保険が使いにくくなっても、それに代わる資源はありません。
結果、制度は不便になる中、思考低下により“じゃあどうしよう?”の課題に対しての創意工夫が苦手になった現場は、“あ・・・気づかなかったことにしよう”と、課題をなかったことにする(もしくは“他に手はないから仕方ない”という言葉で課題解決を諦めてしまう)。
そんな感じです。
昔、社会学の本で読んだことがあるのですが、日本人は伝統よりも利便性を好む傾向が強いのです。
だから、個々の解釈で悶々と悩むより、考えなくても済む規則を重視する気持ちもわかります。
で、数日前に書きましたが、日本人はセロトニン量の不足している人の割合が高いから、安心安全を求めやすい傾向があります。
そして『決まりごとは真面目に守る反面、それを外れた人を許せない傾向が強い』民族なため、規則から外れている人を異常な勢いでバッシングするわけです。
これが今の社会に『息苦しさ』を生んでいるのではないかなぁ~、と思うのです。
考えること(もとい妄想)が好きで自由人の私は、今の余白のない社会はつまらないなぁ~、と感じていますが、皆さんはいかがですか?
訪問をありがとうございます。
昨日は気持ちの良い天気でしたね。
私は一日サイクリングを楽しみましたが皆さんはいかがですか?
さて、今日は短くです。
最近楽しみにしているサイトがあるので、それをご紹介させていただきます。
http://kyoko-np.net/
『虚構新聞』というサイトですが、これ、私は大好きです。
実際にありそうな嘘ネタを、本当の新聞記事町で書いているとても楽しいサイトです。
お時間のある方、“最近、笑っていないな”という方は、ぜひ、覗いてみてください☆
訪問をありがとうございます。
昨日はほぼ一日事務所や喫茶店で資料作成をしていました(他はモニタリングが1件と来社相談が1件のみでした)。
そのおかげ・・・というか、久しぶりに長々と時間を使って、色々な考えをまとめることや新たな知識をインプットすることができました。
また、午後から子育てに関する勉強会が事務所内で行われたのですが、(こっそり聞きつつ)たくさんの学びをいただきました。
世の中って知らないことがたくさんあって、本当に面白いと思います☆
さて、昨夜は哲学者ヘーゲルさんから、色々なことを学びましたので、ここに忘れないように記載をさせていただきます。
高校生・短大生の頃と社会人の頃に、哲学を学びながら自分なりの思考力を鍛えていたことはあったのですが、ヘーゲルさんとは10数年ぶりの再会(?)です。
で、『何でヘーゲルさん?』と思われた方はおられるでしょうが、時代の流れの中で自由というものが主張され出した歴史の中で、ルソーやカントなどは『自由万歳!』と言っていたのですが、ヘーゲルはそれを良しとしつつも手放しに喜ぶことはせず、自由のもたらす危険性についても語っていたのです。
今、行き過ぎた資本主義と自由主義社会と人間の幸福を改めて考えている私にとっては、『とても勉強になりそうだ!』というわけで、様々な彼の主張を調べました(今回はガチで勉強です)。
ヘーゲルが自由を危ういと感じている部分は、『自由を追求すると孤独になる』ということです。
“みんなと一緒”という部分を外れて“自分だけ”という部分を追求していくと、どんどん孤独になり、孤独が進むと『生きる意味が解らなくなる』と彼は言っています。
人間は他者との関わりの中で自分の役割を見つけるという観点から『孤立化することは生きる意味が解らなくなる』と書いており、単に自分のことだけを追求するのではなく、他者との付き合いも含めながら自由を追求することを提案しています。
ここでのポイントは、“自分の自由を求める欲求と、他人に承認されたいという欲求の折り合いをどうするか?”です。
人は自由を求める欲求を持っている一方で他者からの承認欲求を持っていますが、この自由を求める欲求と承認欲求はしばしば矛盾します。
周囲に自分を合わせていると周囲から承認を得ることはできますが、個人の自由を満たすことはできません。
一方で、自分の好き勝手に過ごしていたら周囲の理解・承認を得ることは難しいです。
この矛盾の克服方法(成長過程)を、ヘーゲルはこう記しています。
1)生死をかけた承認の戦い(自分を認めさせたくてケンカする・他者に勝ってポジションを取りたいから競争する)
2)自分だけの価値の追求(競争を馬鹿らしいと思い、人から認められたいと思うと競争の奴隷になってしまうから自分で自分を承認出来たら良いという考え方・名誉や出世など世間の価値を捨て自分の価値優先で生きていくという主義(ストア主義))
3)普遍を求める意識の誕生(自分も他人も認められるものを追求したい・弁論法)
この3を追求することができた時が、自由と承認のバランスが一番取れるのだという考え方です(勝ち負けではなく、より良いものにしたいという考え方)。
この3を実践する時に大切なのは、『率直に意見交換をし、普遍性(誰もが納得するもの)を諦めない意識』があると言います。
周囲の空気を読むのではなく素直に相手に『尋ねる』。
この『尋ねる』という行為は何よりも相手を尊重することになります(空気を読む(忖度)ということは自分が勝手に相手を尊重しているつもりなだけなので、相手を本当に尊重していることにはならない)。
対話を続けることでお互いを知り、愛をもって色々なものを共有することでつながりを深めていく。
その中で、自分が関わる人が自分のことを大事に思ってくれていることを感じることができた時に、とても大きな幸福を感じることができるのではないか?
あぁ、とってもスッキリとしました。
物事を二項対立的に捉える事の多い社会で、『対話を重ねながらベストな方法を考えていく』ことは、とても大切だと思っています。
以前、何かの本で読んだことがありますが、本当の自由は「自分にとっての自由と他人にとっての自由を両方満たすもの。自分だけの自由はただのわがままである」と書いてあったことを思い出しました。
その「お互いの自由を満たすために対話が必要」という考え方は、非常にすっきりします。
そして、私自身、自分の“善”を絶対とせず、色々な人からの視点をいただきながら三方よしのイメージでアップデートしたいなぁ~、と思いました。
いやぁ、日々勉強です☆
訪問をありがとうございます。
昨日は助け合い活動連絡会の世話人会がありました。
この世話人会、皆さん本気で地域のことを考え『どうしたら住みやすいまちづくりができるか?』を真剣に考え行動されています。
本当に素晴らしいと思いますし、その中で私は何ができるかを考えています。
さて、昨日働き方改革について記載をさせていただいた際に、『小さい経済圏ってなに?』というご意見をいただきましたので、今日はそのことについて書かせていただきます。
長文になりますので、興味のある方のみお読みください☆
※後、昨日終身雇用制度はなくなる傾向に向かいますと書きましたが、スキルのある方は企業が離さないでしょうから、全員が該当するわけではありません。現に当社は職員の皆に定年と言わず、働ける限り頑張ってもらいたいと思っています。
私は、これからの社会は、超ローカルと超グローバルに二極化すると考えています(結局は繋がるのですがスタートと取り組む過程はこの2つに二極化するというか)。
その『超ローカル』とは、自治体圏域かもっと小さな圏域で経済が回る仕組みのことで、これを私は『小さな経済圏』と呼んでいます。
そして、私はこの『小さな経済圏』にこそ、現在の孤立化をはじめとする貧困・情報難民・認知症等々の課題解決と、中小企業の経済回復チャンスが眠っていると思っています。
つまり、社会の課題は地域の課題にもなっているため、これを自治体の住民・企業・行政が手を組み解決しながら取り組むことで、世界に対しても『少子高齢化を乗り切った国』として評価されると思っています。
昨日、自分の終末期まで含めたライフスタイルについて考えることが大切と書かせていただきましたが、私は大半の中高年以降の方々は“小さな経済圏でお互いさまを育み、おカネだけではない価値で生きていくこと”に思考を切り替えることが、一番確実に安心した生活が確保できると考えています。
そして、そのキーを握るのは助け合い活動を中心とした、町内会を含めた地域活動・やボランティア団体だと思っています。
つまり、『健康なうちに地域に貢献することで、身体が利かなくなった時の自分の生活を守ってもらう』という、相互扶助の関係です。
少し前に書かせていただきましたが、今後は社会保障の負担割合が変わりつつ利用範囲が狭まります(これは確実)。
そうなった時に、例えば、民間企業にヘルパーさんの家事援助をお願いした場合、1回1時間2,000円以上はかかります。
掃除・買い物・調理・洗濯・布団干し等々頼むとなると週4時間は必要でしょうし、その場合、週8,000円、月額にして30,000円は必要になります。
でも、自分が元気なうちに相互扶助のシステムに加入し、そこで安価なボランティアで徳(徳という表現が妥当かはわかりませんが、他の言葉が思いつきませんでした)を積んでおけば、自分が家事援助を必要となった時、優先的に安価な支援を受けることができるとかそういう仕組みをつくれば、必要以上に老後に恐怖を抱く必要はありません。
それだけではなく、元気なうちから地域に入ることで地域に根差した生活を送れば、認知症等になった時にも地域の方々にローコストで見守りやちょっとした支援を受けやすくなります。
これが、おカネのある人はおカネで課題を解決すれば良いし、おカネの無い人は地域に貢献することで解決する、ということです。
今までは、困ったら行政が助けてくれていたものも、その期待が薄くなってきた今だからこそ、こういう仕組みが必要だと思っています。
とは言え、既存の活動団体が組織として自立した団体として運営することは困難だと、5年前地域活動に関わらせていただいた時に私は感じました。
そこで、今回の助け合いの仕組み化を考えたのです。
各団体の活動を企業から協賛を募ってその資金で継続性を担保する。
その代わり、住民は協賛してくれた企業を積極的に活用し経済を回す。
行政はこの仕組み(住民が自立してまちづくりを行う仕組み)が上手に回るよう、客観的視点からルールを整備していく。
これが、私の考えた『小さな経済圏』です。
その際、客観的視点で頑張っていたり地域に必要とされている団体には優先的に資金が回るよう、企業の協賛金は地域住民の『応援ボタン』で金額設定をする為、必要な団体こそ有効に企業の資金を活用し地域に貢献できる仕組みをつくっています。
例えば、今流行りの子ども食堂で考えてみます。
この団体は、毎月数十食の食材を確保することに苦戦しています。
が、応援ボタンで寄付をたくさん募ることができればそれで資金を確保でき、地元のスーパーに協力してもらい激安安価で消費期限ぎりぎりの食材を購入することができます。
また、スーパーから子ども食堂までの食材の移動は、地元の運送会社を激安安価で活用します。
その際、子ども食堂に来てくれた方々、ボランティアの方々には大々的に『〇〇スーパーさんと〇〇運送さんのおかげで、今回の食堂は運営しました』という宣伝を行えば、企業にとっても大きな宣伝効果と社会貢献の可視化ができます(それを企業のHPで宣伝しても良いし)。
地域住民としては、子ども食堂運営継続の安心と輝く未来の育成に貢献できるし、企業としては廃棄するリスクある食材を安価でも販売することができかつ企業の宣伝もできます。
このような形で、助け合いを軸として住民と地域企業がつながり、その中で経済を回すことができれば、優しい社会の具現化となり、三方よしだと思っています。
こんなことを書くと、『加藤商売上手だねぇ~』と言われることもあるのですが、私の目的は利益追求ではなく次の世代に住みやすい社会をつなぐことなので、利益は総売り上げの1割(せいぜい法人税を支払う程度)しか受け取るつもりはありません。
要は『会社が税金を支払えるギリギリで運営できたら、それ以上にここで儲けようとは思っていません』ということです。
今後地域企業に協賛していただいたお金は、『協賛金-経費-1割税金分として当社確保=地域活動に全て活用』と考えています。
これ、お気づきの方はおられるかもしれませんが、企業に協賛していただいても企業にリターンをできる限り大きくするのです。
結局経済はグルグル回すことが一番良いと思うので、小さな圏域でお金を回す仕組みを創るというのは、当社の利益優先にしてはダメなのです。
というわけで、当社は最低限収入(経理の税理士依頼文とか法人税等の支払いコスト以外の収入)以外はいただきません。
それよりも、地域でどれだけ信頼を得られるか。
この『信頼社会の構築が可能か』の一点で勝負したいというのが私の願いでして、相変わらず財布の乏しい私でした(トホホ)☆