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2018-11-25 08:15:00

訪問をありがとうございます。

 

一昨日はサイトの更新をサボり、とても尊敬している方との会合に集中していた私です。

 

その方は、普段はさっぱり連絡を取り合わないのですが、たまに会っても何の違和感もなく話をすることができる、貴重な友人です。

 

今回は、大学院のレポート作成のためにインタビューを受けました。

 

いやぁ、前向きに何かに取り組んでいる方との時間をもらうと、元気が出ます☆

 

 

 

 

さて、私は以前から時々質問を受けることがあります。

 

それは『加藤はよく“信用と信頼”というけど、その違いは何?』というものです。

 

今回は、その二つの違いについて書かせていただきます。

 

 

 

 

まず『信用』についてですが、これは“過去のこと、かつ、条件付きで行うもの”です。

 

『あいつは信用のおける奴だ』等に使うことがあると思いますが、これは“今までの付き合いからその人を信じることができる担保”があって、発する言葉なのですね。

 

逆に言うと、どんなに好きな人でもその人との間に自分が信じることのできる裏付けがなければ『信用』できないわけです。

 

今までの実績を基に信じてもらう、これが『信用』です。

 

また、契約なんかも信用を基にお互いの役割を書面化したもので、ギブ&テイクが明確にされたものですね。

 

利害関係によって成り立つものであると、私は認識しています。

 

 

 

 

一方の『信頼』は、“未来に対して、かつ自己責任で行うもの”です。

 

『私はあの人を信頼している』という言葉は、“担保はないけれど、私はこの人を信じて頼る”という意味になります

 

この言葉の大切なポイントとしては、“期待はするけど保証は含まれない”ということです。

 

だから、“信頼する”という言葉を使った時には“信じていたのに!!!”という恨み節はナシなんですね。

 

勝手に自分が期待しただけなので☆

 

逆に、『裏切られた!』と感じる人がいたら、その人は相手に対して信用を求めていたわけで、信用を求めるのであれば、自分は相手に何を与えたのかを振り返って考えてみる必要があるのでしょう。

 

 

 

 

というわけで、信頼と信用って似ている言葉ですが、実は使い方としては真逆になるのではないかというのが、持論です。

 

だから、結構この使い分けを私は明確にしています。

 

どこかでも読んだことがありますが、『信頼しても信用するな』とは、『相手に対して期待をしても、自分が望む結果まで信じてはいけないよ』ということです。

 

そして、信頼とは『お互いの努力によって成立するもの』なんです。

 

担保のないことを信じるって大変勇気のいることですが、それでも互いの努力で『信じる』ことを育んでいく。

 

この『努力せざるを得ない』関係が、信頼関係なのですね☆

 

 

 

 

ちなみに、本業である介護保険のケアマネジャー業務以外は、基本的に私は『信頼関係』をベースにしています。

 

なぜなら、その方がおもしろいからです。

 

信頼している方が自分も相手の為に最善を尽くすことができるし、『相手に勝手に期待して裏切られたとショックを受けたることはないから』です。

 

主体的な関係つくりだと思うのですよね。

 

信頼をベースに関係つくりをしていると、自然と自分の他人を“見る目”が育ちます。

 

逆に信用をベースに関係つくりをしていると、人間関係がブチブチきれることがあります。

 

どちらが良いとか良くないとかそういうことは抜きにして、この2つの違いを知っておくことは、人間関係を考える時に大切だと思っています。

 

自分は相手に対して“信用”したいのか?“信頼”したいのか?

 

そして、信頼するのであれば、どんなに理不尽な目に合っても“裏切られた!”という考えは持たない方が良いと思います。

 

なぁんて。

 

久しぶりに真面目なことを書いてしまいました☆

 

皆さんは、周囲の方とは“信用関係”と“信頼関係”のどちらを育んでいますか?


2018-11-23 08:02:00

訪問をありがとうございます。

 

さて、ここ数年、地域で活動をしていて気づいたことがあります。

 

それは、シニア世代の方々が、「この地域は自分達が守る」という意識を持ってくださるということです。

 

これは、これからの社会にとって、何よりも変えがたい強みになると思っています。

 

 

 

 

通常の『あるある体制』では、まず国が課題を集約して対策を考え通達等で保険者に降ろします。

 

それを受けた保険者が地域でどう対応するかを検討し、道筋を作って地域で組織を構築し対応していきます。

 

が、当区では、地域住民からの課題抽出と対策検討を行うことができているのです。

 

これって、すごいことだと思うのは私だけでしょうか?

 

 

 

 

この当区で取り組んでいる『地域主体のこれからの地域を考えた取り組み』。

 

素晴らしい所は、あくまでも地域住民が主体となって、しかも地域包括ケアシステムの先の共生社会を見据えているところです。

 

つまり、『高齢者のみに注目するのではなく、障がい者や子育ても全て含めて地域だから、丸ごとで考えようよ』という視点なのです。

 

まだ、管轄が縦割りである行政は完全に横櫛が刺さっているとは言えませんが、それすら地域の住民はどうやって連携を図ってもらおうか、どの課を軸に進めれば良いのか等、真剣に考えています。

 

 

 

 

私は、これが、地域の『あるべき自然な姿』だと思っています。

 

そして、こういう地域住民発信の活動を後方支援することが、今は一番大切だと考えています。

 

住民のやる気とモチベーションの向上が地域活性化につながり、地域活性化の結果、様々な支出削減につながると思うのです。

 

支出削減を目的に地域住民に働きかけを行うのとは、逆の発想です。

 

 

 

 

以前も書きましたが、地域住民の方の一言。

 

『地域は縦割りなんてないんだよな。みんなつながっているんだよ』

 

この一言を忘れず、今後も地域住民の『あったらいいな』の取り組みを応援していきたいと思っています。


2018-11-22 22:02:00

訪問をありがとうございます。

 

昨日は、地域の方々と3時間以上大學創設のための話し合いをしました。

 

皆さん、70歳過ぎの方々ですが、地域や将来のことを真剣に考え『自分事として今何が必要か?』を意見交換しています。

 

その姿をみると、本当に元気をもらいます。

 

はい、たくさんの役割をいただきましたが頑張りますよー☆

 

 

 

 

さて、そんなことから、『やりたいことを実行できる人とできない人の差はなんだろう?』と考えている私です。

 

一晩考えて出た答えは、『評価基準が自分にあるかないかも』とぼんやりとした答えを出しました。

 

例えば、私は自分大好きなので、めちゃくちゃ自己肯定感は強いんですよね。

 

そして、何かに取り組む時は“それが実現できて満足している自分の姿”がハッキリ視えるし、『これはうまくいって皆がハッピーになれる』という、何とも無責任な自信があります。

 

こういう『自分の将来に自信がある人』は、例えリスクが大きくても自分がやりたいことがあれば、取り組むことができていると思います。

 

逆に、自分に自信がないと失敗した時のリスクを負う自信がないから『尻込み』してしまうのではないかと考えたわけです。

 

 

 

 

評価基準については、自分基準で持っておいた方が良いと思います。

 

他人様に褒められることを期待したりそのために頑張るって、ものすごく大変だし、そもそも他人の評価基準って

 

結 構 適 当 で す か ら ね 。

 

自分が思っているほど、他人は自分のことなんて見ていないし気にもしていない。

 

そんな評価を期待して一喜一憂するくらいだったら、自分で自分を褒めた方がよほど自己肯定感は上がると思うのです。

 

多くの人に言えることだと思いますが、人間は『基本、自分が一番好き』ですから☆

 

 

 

 

そんなわけで、自己評価でたくさん自分を褒めることで自己肯定感を満たす。

 

そして、自己肯定感を高めれば、何かに挑戦するときも自信(自己効力感)を持つことができる。

 

これって、結構いいスパイラルだと思っています。

 

 

 

 

ちなみに、たまに“そんなに自分を甘やかしちゃいけない”という方もおられますが、私はどんどん自分を甘やかしていいと思っています。

 

だって、自分に優しい人は他人にも優しいですから。

 

完璧な人なんていなくて、自分の弱さを知ってそれすら愛せるようになれば、他人様に対しても寛容になれるし、他人様に対して寛容な人が増えれば、世の中は優しくなると思うのです。

 

どうせ過ごすなら、ぎすぎすしたミスを指摘し合う社会より、善意のミスには寛容になれる社会の方が良いと思いませんか?


2018-11-22 07:22:00

訪問をありがとうございます。

 

昨夜は、職能団体の部会にお邪魔しました。

 

職能団体には様々な部会がありますが、その一つの部会に、あるお願いとアンケートを取るための会議参加だったのですが、部会によって雰囲気が違うなぁと感じた私です。

 

勉強になりますね。

 

 

 

 

さて、今日はタイトルを見てびっくりされた方もおられるかもしれません。

 

これはNHKの金曜日だか土曜日にやっている、「チコちゃんに叱られる!」のチコちゃんが放つ一言です(我が家でブームとなっています)。

 

私は一度しか観たことがないのですが、これは本当におもしろいです。

 

当たり前に使っている言葉や思い込みを深掘りしてくれるという、オタクにはたまらない番組。

 

機会がありましたら、ぜひ観てください☆

 

 

 

 

そんなわけで(?)、今日は『知らないということを知る(無知の知)』について書いてみたいと思います。

 

以前、思考の抽象化を学ぼうと思った時に細谷功さんの著書が大変勉強になったのですが、この方の本を読んで『世の中は(自分が)気がついていないことがたくさんあって、それを意識し気づいていくことが大切』ということが書かれてあり、ワクワクしたことを思い出しました。

 

一つでも多くの『知らない』を知り、それを考えこねるのが好きな私にとっては、いわゆる『知識』を埋め込んでそれを基に解決方法を探る(課題解決)よりも、そもそもの問題を発見して、その解決方法を考えていく方が楽しいのです。

 

そして、不思議ですが、色々なことを知れば知るほど“自分が無知である”ことを実感するというループにハマるのですが、これは良いのか悪いのか・・・。

 

なんて、そんなことを書いていたら細谷さんが懐かしくなり、再度本を読み返そうと考えている私です☆

 

 

 

 

ちなみに、私はアウトプットのために要約ノートを作っているのですが、それを読み返してみると『知=事実と解釈の集合体(分類能力)』『知識=知を静的に固定したもの(事実+(分類+関係づけ))』と書いてあります。

 

事実は誰が見ても変わらないことだけど、そこに個々の解釈が加わって知になる。

 

そして、それを自分の中で『こうだ!』としたものが知識というのだということを、覚えておきたかったのだと思います。

 

ちなみに、“時代と共に常識や情報は変化しているのに、それに併せて自分の知識をアップデート(更新)しないと、その知識は色あせて陳腐化してしまう”とも書いてありました。

 

なんて書くと難しく感じるかもしれませんが、要は『事実は誰が見ても変わらないものだけど、解釈が違うから受け取り方の違いが生じる』ということと、『自分の解釈を固定したものが知識で、これは時間と共に変化するから絶対としない方が良いよ』ということですね。

 

この方の本は、無知だけでなく、抽象化の考え方や無理の構造等もとても分かりやすく書いてあり、私は大好きです。

 

本を読むことが嫌いでない方は、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

 

 

 

 

チコちゃんの話から逸れてしまいましたが、世の中って知らないことがたくさんあって、だからこそ楽しいと思います。

 

そして、色んな解釈を『へ~、そういう考え方もあるんだ~』と受け入れられる気持ちを忘れたくないなぁ~、と感じた私でした。


2018-11-21 07:43:00

訪問をありがとうございます。

 

昨夜は職能団体の委員会に出席してきました。

 

その後、副理事長と30分以上会について話をさせていただきました。

 

そして、帰宅後はバタンキューの私でした☆

 

 

 

 

さて、今日は言葉の使い方(意味?)について書いてみます。

 

と言っても、私は母国語である日本語すらきちんと使いこなせない人間なので、崇高なことは書けません・・・というか、言葉の意味って変化するんだな、という気づきの話を書かせていただきます。

 

その言葉とは『忖度(そんたく)』です。

 

具体的には、『んー、あの人は忖度するからねー』という使い方をされました。

 

 

 

 

私の中で『忖度』というのは、『相手の気持ちに配慮すること』という理解で、どちらかというと『慮る(おもんぱかる)』と似ているイメージがあり、相手を尊重したプラスの言葉だったのです。

 

しかし、会話の中で出てきた使われ方は『相手(権力者)の気持ちを推し量り相手が望む行動を取ること』という、マイナスニュアンスでした。

 

で、初めは会話のズレに違和感を感じていたのですが、ズレの部分が分かってスムーズに話が進んだという話でした。

 

 

 

 

その後、気になって、改めて忖度の意味を調べてみると、確かに「相手の気持ちや心を推し量る」という意味で合っています。

 

では、いつから世間様では使い方が変わったのだろうと調べてみると、Wikipedia先生が教えてくれました。

 

 

 

 

もともと忖度という言葉は、中国最古の詩篇でも使われていたくらい古くからある言葉らしいです。

 

で、最近では1990年代に脳死や臓器移植に関する文脈でも使用されていたようですが、その時までは『相手の意味を推し量る』という意味での使用だったようです。

 

この意味が変わったとわかる記事が、1997年夏の頃の政治に関する新聞記事です。

 

その時の意味は『上位者の意向を推し量る意味で合い』での用語となっていたようで、さらに2014年以降には上司の意図を忖度するという使われ方がみられるようになり、この言葉が否定的な意味を持つようになったようです。

 

 

 

 

で、私の中で浮上したのが『新しい解釈を知ってしまった今、今後はどちらの意味で使えばよいのだ?』という、全くもってどーでもいい悩みです。

 

結論としては『忖度という言葉自体を使わなければ良い』なんですけれど、5分間くらい考え込んでしまいました☆

 

考えてみたら、先ほど書いた『慮る』も、実は『おもんぱかる』が正しいのか『おもんばかる』が正しいのか、きちんと理解していない私。

 

ついでに調べてみたら『どっちでもいいよ』という、なんとも適当な回答だったため、正しく日本語を理解するって大変だけど、案外適当に使ってもいいものなんだな、と、改めて感じました。

 

そして、だからこそフォーマルな場で何かについて話し合う時は、言葉の定義を明確にして参加者の認識を同じにすることが大切なんだな、ということを実感した私でした。

 

それにしても、『おもんぱかる』と『おもんばかる』がどっちでもいいなんて・・・、ある意味、軽いショックを受けたのは、私だけでしょうか?


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