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2018-07-26 07:17:00

訪問をありがとうございます。

 

いやぁ、昨日の私のスケジュール予定は「ゼロ」でした☆

 

週に1日はこういう日を作り、突発的な物事にも対応できるようにしているのですが、「何にも起こらず本当にゼロ予定」というのは数年ぶりのことです。

 

おかげでペンディングしていた事務処理がはかどりました☆

 

そして、ガチガチの身体をほぐすべく、終業後はマッサージに行ってきました(リフレッシュできた!)。

 

 

 

 

というわけで、今回は「ゼロリスクの危険」について書いてみたいと思います。

 

ゼロリスクとは「食品や環境などに『絶対安全』や『100%大丈夫』を求めるもの」です。

 

そう書くと、大半の方は「本当の意味でのゼロリスクなんてあるわけないじゃん」と気づいていただけると思います。

 

なぜなら、私たちの日常生活は『生きていること自体がリスク』なわけで、そのリスクをゼロにすることは不可能なのです。

 

しかし、日本では2000年頃より「リスクゼロ」に向けた活動がたくさん出てきています。

 

所沢のダイオキシンをはじめ、最近では福島県の原発も記憶に新しいかと思います。

 

 

 

 

少しでもリスクがあるとその部分を叩いてすべてを批判し改善を要求する。

 

こういうことを要求する人たちは、自分達が“正論”を言っていると信じているので正しい知識や費用対効果も考えずに批判し、知識人が「いや、そのくらいの数値では大丈夫ですよ」とか(自分たちの)意に沿わない発言をすると、今度はその知識人にターゲットを変えて「御用聞き学者だ」と批判するという・・・。

 

テレビやマスメディアでよく見かける手法ですね(個人的には自分たちの正論のために一部の人たちをの差別化と排除を進めるやり方にはうんざりしています)。

 

 

 

 

そして同時に、“ゼロリスクは無理だけどリスク管理はきちんとしようね”という考え方が浸透していきます(リスクマネジメント)。

 

リスクマネジメントとは、「リスクの大きさとリスクを減らすことによるベネフィット(便利で有益)と、そのリスクを減らすために必要なコスト(費用)の大きさをはかりにかけ、比率を計算してリスクを減らすかを考えていくこと」です。

 

何だかまどろっこしい言い方ですが、要は「リスクに対応する費用対効果を考えてどうしていくか考えようね」ということです。

 

この「リスクマネジメント」ですが、社会の中で必要以上に「リスクを許さない」という動きが日に日に高まっていると感じるのは、私だけでしょうか?

 

それも、リスクを管理する企業側の発信というより、世論(正確には世論を装ったマスコミ?)が国や企業に過剰なリスク管理を求めるという事態になっていると思います。

 

もう、そうなるとリスク管理ではなくリスク排除です。

 

マスコミ(世論)が騒げば、国も黙っているわけにはいきません(これも、そもそも本当に世論をマスコミが代弁しているのか私は懐疑的ですが)。

 

そうして、「ガチガチのルール」がドンドンできているのが今の社会だと私は認識しています。

 

介護事業所はいい例ですよね(ルールが厳しくなりすぎて企業参入が減ってきている)。

 

「良くなりたい」「できるだけ安全・安心の中で過ごしたい」という気持ちはわかりますが、結果、自分たちで自分たちの生活を不便にしているようにしか私には見えないのです。

 

 

 

また、過剰なリスク排除は新たな事業や取り組みの可能性を潰す危険性をはらんでいます。

 

新たな事業や取り組みって、ある意味「リスクだらけ」なのです。

 

でも、それを行動して改善していくから社会は進化すると私は考えています。

 

そこに、過剰なリスク排除の理論を持ち込まれると、この社会の変革期にチャレンジする機会が減ってしまうのです。

 

チャレンジする機会が減るということは変化しないということで、これは国の衰退を意味します。

 

そういう意味で今の「過剰なリスク排除」の傾向に、危険だなぁという意見を持っています。

 

 

 

 

確かに、リスクは減らしたい。

 

同時に、それが過剰になっていないか?現実不可能なものを押し付けていないかを、今一度私たちは考える事が必要なのではないでしょうか?

 

そして、社会が挑戦者たちを応援し、困っている人たちに目を配る両者の視点を持ったら、世の中はもっともっと過ごしやすくなるのではないかなぁ~、なんて考えてしまう今日この頃です。

 

皆さんは現在の「リスクに対する捉え方」「リスク管理」について、どのように考えますか?


2018-07-25 12:21:00

訪問をありがとうございます。

 

昨日は名古屋の人材企画の方が来社してくださいました。

 

人材企画さんは、当区で「KIKKAKE」という地域活動団体の集約冊子を作ってくれた企業です。

 

東京に来るとの連絡を受け、その旨を何人かにお伝えしたところ「ぜひ会いたい」という話の流れになり、今回は集まってワイワイ話をしました(本当はFさんに会いたい方がもっとおられたのですが、今回は冊子制作のメンバーのみになりました)。

 

1年前には右も左も分からなかったFさんでしたが、今では彼の上京に「会いたい!」と言ってくれる人がたくさんいる。

 

Fさんの人間力に感心しつつ、当区は人情のまちだなぁと思いました。

 

Fさん、お忙しい中時間を作っていただきありがとうございます。

 

 

 

 

さて

 

前回「議論」について書きましたが、今後は少し社会の仕組みについても触れながら書いていきたいと思います。

 

具体的には、社会学・社会心理学・行動心理学をちょいちょい入れながら書いていこうと思っています。

 

とそんなわけで、今回は「正義」について考えてみたいと思います。

 

 

 

 

前回「自分の正義を絶対視しない方がよい」と書きましたが、この「正義」というもの。

 

自身の信念になり良い部分もありますが、考え方・使い方を間違うと極めて厄介なものになるのです。

 

そもそも正義というものには2つの考え方があります。

 

1つは、「善や正しさのようなもの」という考え方で、これは先日の内容にも挙げた通り“正義の基となる正しさは誰にも決められない”という問題点を持っています。

 

善を訴えようとすると対比する「悪」を作り出さなければならず、これは時に「無理やり悪役を作り出す」というなんとも不可解な状況を生み出します。

 

自分の正義を正当化するため、わざわざ対峙する悪を作り出そうとするなんて、なんとも本末転倒ですが、これは戦略として日常的に使われることが多いです。

 

他にも、立場の違う人たちが「正義」を主張すると不毛な争いが始まります(昨日の記事のような話になります)。

 

そう考えると、単純に良し悪しではかる「正義」の使い方は危険だなぁと私は考えています。

 

 

 

 

そして、もう1つの正義は「公平さを求める」という考え方です。

 

これは、20世紀にアメリカの思想家が唱えた正義で「フェアであること」をベースにしており、正義の原理は3つあります。

 

1)基本的にみんな自由だよ。

 

2)平等も必要だから、誰にでもチャンスは必要だよ。

 

3)でも、最も困っている人たちが“平等よりも不平等で良いよ”と言っている時は平等でなくてもいいよね。

 

自由と平等と公平をベースとして、これらがバランスを取りながら遵守することを「正義」としています。

 

3についてわかりにくいと思うのですが、税の徴収方法で例をあげると応益主義と応能主義の違いのようなものです。

 

 

蛇足的に応益主義と応能主義について書いておきます☆

 

応益主義というのは「個人の収入や財産等をいっさい考慮せず、かかった分だけ全員平等に平等に税をかけますよ」というもので、介護保険開始時の利用料金だとか消費税は、原則これにあたります。

 

「私、所得が低いから消費税2%にして」と言っても通りませんよね?

 

一方で応能主義というのは「個人の所得に応じて徴収する金額を変えましょう」という、個々の台所事情を踏まえて無理のない徴収を行います。

 

社会保険料はこの方法ですね。

 

この社会保険料も「みんな平等でなくちゃダメでしょ!」となると世の中はハチャメチャになります(第一お金のない人から取ることはできないし)。

 

だから3で挙げているように、「最も困っている人が不平等で良いよと言った時には、平等に拘らずに公平性を優先しようね」という考え方になるのです。

 

 

 

 

長々と書いたのでこのあたりで終了します。

 

何が言いたかったかというと、「正義を善悪で捉えてしまうと、その周りには自分に同調する人だけしか集まらず偏った正義になると同時に、正義が悪に転落するリスクがあるよ」ということで、「物事を2極対立で捉えるのではなく、公平性という視点で正義を捉えた方が、建設的な議論や思考ができるよ」という事です。

 

なんて、またしても数行で収まってしまいました・・・。

 

皆さんは正義をどのように考えますか?


2018-07-24 07:17:00

訪問をありがとうございます。

 

昨日は、一般社団の事務所を手芸ボランティアの方々が使用されていました。

 

この団体さんは月2回活動をされているのですが、皆さんとてもとても元気です。

 

朝10時から午後3時過ぎまで、ワイワイ言いながら活動をされています。

 

その姿を見る度に「人が集う場っていうのは良いなぁ」と思います。

 

そしてボランティアとか地域活動というのは「情けは人の為ならず(人の為に行った行為も自分に返ってくる)」だなぁ、と思います。

 

長寿社会だからこそ地域との繋がりは大切で、地域での活動を通じて健康を維持できるなら、一石二鳥だと思いませんか?

 

月数回程度の集いで健康を維持できたり精神的な繋がりを感じることができるのであれば、活動って良いなぁと思いますし、こういう「緩いつながり」を持つことは、現代の人には大切なことだと私は思っています。

 

 

 

 

さて。

 

今日は、意見の違いというか議論について書いてみたいと思います。

 

何かを決める際やテーマを決めて話し合う際に意見が2つに割れる時、「どちらが正しいか?」で揉めることってありませんか?

 

例えば介護報酬。

 

介護報酬は3年に1度見直しがされていますが、この額を決める際に介護事業所は報酬向上を望みますし、国(納税者)は給付をこれ以上増やしたくないと思っています

 

こういう「正解のない意見の相違」って、実は結構厄介だと思います。

 

 

 

 

数学のように答えのない問いは、ほぼ「どの角度から見るかによって」正義は変わります。

 

介護事業所からしたら「俺たちはこんなに頑張っているのだから報酬を上げて役割を認めてくれよ」と思いますし、国(納税者)の側からしたら「高齢者の20%しか利用していない保険に、これ以上給付を増やすわけにはいかない」と思う。

 

どちらも間違えではないですよね。

 

ただ、自分の立ち位置からみえる景色が違うので、主張する正義も違っているのです。

 

 

 

 

物事を「白か黒か?」「敵か味方か?」で捉える考え方って、実は危険だと私は考えています。

 

そもそも議論って自分の正しさを主張するものではなく、お互いの言い分を聞き視野を広げた上で「何が一番最適か?」を話し合う場です。

 

そこでお互いが相手の言い分を聞かずに「自分の意見」を通そうとしてしまうと、そもそも議論にならないという。

 

こうやって抽象化して書くとぴんと来ないかもしれませんが、結構こういう正義の違いからくる不毛な争いってあると思います。

 

 

 

 

自分の意見を持つことはとても大切ですが、議論の場では相手の矛盾や綻びを見つけようとして意見を聞くのではなく、自分の考えは置いておいて「なぜ相手はそのような(自分と違う)考え方をするのか?」を知ろうとするだけで、議論の有意義さは変わります。

 

その上で、「目標達成のためにはどういう方法を取ることが一番最適か?」を考えることが、とてもとても大切になると思うのです。

 

ポイントは「自分の意見を絶対視しない」ということです。

 

 

 

 

これ、意識するだけで議論や会議の場が大きく変わります。

 

興味があればお試しください☆


2018-07-23 07:17:00

訪問をありがとうございます。

 

週末はなんだかんだで土日とも仕事関係で使ってしまった私ですが、日曜日に帰宅後、子ども達の成績表をみて、久しぶりに長女・次男に粛々と諭してしまった私です。

 

とはいえ、我が家は学力評価については一切みません(そんなものは子どもが自分で考えれば良いと思うので・・・)。

 

私がいつも見るのは「生活態度」など、通知表の右半分、もしくは一番裏面の評価です。

 

 

 

 

これ、毎回3人とも偉いなぁと思うのは「学校を休まない」ということです。

 

とにかく「学校へは何の疑問も面倒くささも感じずに毎日通っている」ことは素晴らしいと思います。

 

が、今回の「生活態度欄」についてはいただけません。

 

長男は大丈夫(言われなくとも自分の決めたことはキッチリやる子なので生活態度の評価は良いのです)。

 

長女は丸が2個しかない。

 

次男に限っては1個しかない・・・。

 

毎日休むことなく学校に通っているのに、君たちは何をしているんだ?

 

ということを粛々と話していた私です。

 

 

 

 

私はいつも話をする(怒る?)時は、「まぁ、座れ」と言い正座をさせます。

 

その後、「これは一体全体どういうことだ?」ということをトコトン問い詰めます。

 

自分でも本当に嫌なヤツだなぁと思いますが、学校というのは勉強以上に集団生活の場を体験し、その中で様々なことを学ぶことの方が大切だと思っているので、ここ(生活態度の評価)はどうしても譲れない部分なのです。

 

 

 

 

長女は「だって、先生えこひいきするんだもん」と反逆切れ状態。

 

確かに、今までの生活態度は良かったのでそれはあるかもしれないと思い、友人関係や自分の役割についてヒアリングして終了。

 

問題は次男です。

 

この子は何というか、とんでもなく自由人でマイペースで末っ子のせいか甘える事だけはうまい。

 

まるで、

 

自 分 を 見 て い る よ う な 気 持 に な り ま す 。

 

案の定、初めのうちは「分かんなーい」とか適当なことを言って逃げていたのですが、段々「これ以上お母さんを怒らせたらマズいぞ」ということに気づいたのか、声が小さくなっていきます。

 

そして、半ベソ状態で兄に助けを求める次男。

 

 

 

 

長男は基本的に他人の話には入ってこないのですが、次男に助けを求められると何のスイッチが入るのかはわかりませんが、必ず次男を助けます。

 

次男もそれを分かっていて長男に助けを求めるのです。

 

何だかその姿を見ていたら起こる気も失せ、他人様に迷惑をかけていなければいっか、という気持ちになってしまった私です。

 

 

 

 

その後、この夏休みは兄弟間で協力して夫の家事を手伝うことを提案し各人にそれぞれ役割を決めてもらったのですが、どこまでやってくれるのやら。

 

我が家は連帯責任方式なので、誰か一人でもサボると全員が怒られます。

 

明日から夏休み開始となりますが、どうなることやら☆

 

 

 

 

皆さんのご家庭では夏休みはどのように過ごしますか?


2018-07-22 21:10:00

訪問をありがとうございます。

 

今日は、朝7時から知人のポスティングに同行していたため、サイトの更新が遅れてしまいました(朝6時半前に家を出ました)。

 

そして、半日(4時間)外を廻って知ったこと☆

 

日焼け、半端ない!!!

 

初めての体験は楽しくできたのですが、日焼け止め等一切対策をせずに行った結果、とんでもなく日焼けしてしまった私です。

 

とほほ・・・。

 

 

 

 

さて。

 

今日は皆様にとっては「ホント―にどうでも良いハナシ」なのですが、ワタクシ現在「ニックネーム」を考えています。

 

ほら、堀江貴文さんは「ホリエモン」とか、本名以外で呼ばれる愛称です。

 

3日ほど前から急にニックネームがほしくなり考えているのですが、もともとネーミングセンスのない私、

 

ま っ っ っ た く も っ て 何 も 浮 か び や し な い

 

んです。

 

 

 

 

私のネーミングセンスのなさは折り紙付きです(自慢できることではないですが)。

 

どのくらいセンスがないかというと、3人もいる子どもの名前を一人も決められなかったくらいです(長男は全く浮かばず、長女は「武子」にしようと提案したら却下され、次男は「一(はじめ)」にしようと提案したらこれまた却下されたという・・・)。

 

会社の名前は「半年かけて」考え抜いたのですが、もしかしたらそれで力を使い果たしてしまったのかもしれません。

 

 

 

 

というわけで、どなたか親切なお方がおられましら、ぜひ!私に素敵なニックネームをご教示ください☆


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