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柳生拳心斎

 

 大正2年12月8日、宮城県新田に星彦十郎の四男として出生。父の高弟であった高橋誠一師範について稽古し甲冑免許となる。以後は父のもとで修業し、師範代として各地を巡り柳生心眼流兵法を教授した。29歳で一子相伝を受け、先代逝去により流儀を継承した。このことはその後も10年伏せて修行を行った後に公開した。星彦十郎師範の遺言により宗家を名乗る。名古屋で柳生新陰流第二十世であった柳生厳長師範より柳生剣心斎の号を贈られ、後に柳生拳心斎と改めた。山岡荘八原作で昭和48年放映の大河ドラマ「春の坂道」では柳生心眼流兵法の無刀取りが採用された。

 このころ古武道の各流師範と上野広徳寺に集い、塩煎餅と湯茶を片手に武道の在り方や指導の方法について論議したという。この集まり広徳寺会といった。

 昭和40年代になり柳生新陰流兵法の大坪指方師範、弟子の島津兼治師範らとともに桃生、佐沼の調査を行い柳生心眼流伝承の詳細を明らかにする。これらの資料から流祖以来の古い歴史が確認され、昭和56年に「新田柳心館」の名で宮城県無形文化財に指定された。

 日本武道協会設立に参画し昭和60年度の武道功労賞を受賞。日本古武道協会の依頼によりアメリカ合衆国、オーストラリア、フランス・モナコなどにおいて海外演武を行う。

 直門の皆伝弟子として佐藤輝男師範、佐藤永一師範、小野寺肇師範、佐藤清光師範、千葉昇師範がいる。「正伝柳生心眼流兵法術」共著、「柳生心眼流兵法入門」監修。

 平成18年3月に柳生で奉納演武を行い、7月に酒井正國を相伝者に指名し流儀の後事を託した。稽古場で倒れ、8月26日の夏期合宿の日に他界した。

 

 当流では先師が逝去したときに修行途中であった弟子を先師に縁ある皆伝者が育てる伝統があります。先師逝去後、酒井正國は星裕文、高橋健之、鈴木亮一に一般用皆伝の伝書を発行し(代授)、星裕文総本部長の二代目星國雄襲名、日本古武道協会、日本古武道振興会における柳生心眼流兵法総本部流儀代表者の変更などを進めました。平成27年5月をもって柳生心眼流兵法総本部を退任しました。

 当流では江戸時代より一般用皆伝をもって独立を認める伝統があります。柳生心眼流兵法総本部は相伝道場である柳正館とは独自の運営方針で活動しますが指導関係は存続し、異なった内容を伝えるということではありません。柳正館では故星國雄宗家門下の柳生心眼流兵法の条件として「心(活人剣の心)」「形(正しい二十一箇条の保持)」「体(門人の融和と協力)」「願(武道者としての在り方と矜持)」の4つの条件をもって判断すること示しています。