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稽古次第

入門

 稽古を始めて数か月以上たってさらに稽古を続けることを希望される場合は、入門式を行って正式な門人となります。師は国法を順守すること、仲間を大切にすることなど流儀の定則と心得について説明します。弟子は神前でこれらを守ることを誓い、入門帳に名前を記載します。「表」七箇条、「中極」七箇条、「落」七箇条の二十一箇条を学びます。別伝として「切」七箇条を学びます。すべて柔術の形ですが、最初から武器術での意味を説明しつつ稽古を進めていくのが故星國雄宗家門下の特徴です。

切紙免許

 「伝授」「奥義」と呼ばれる秘伝の始まりです。ここでは柳生心眼流がどのような動きをするかという原則が示されます。伝授の内容は「技の許し」「伝書の授与」「口伝」からなり、その次第は「前稽古」「本伝」「工夫」の3つの別が立てられます。伝授では技や口伝が示されますが、それを自己のものとするにはたゆまぬ稽古・鍛錬・工夫しかありません。これらは一生を通じて行うものです。伝授は一般には表裏十四箇条ですが、細かく砕けば非常に多くの変化があり、これらに入らない技や特別な伝も存在します。当道場では剣術、棒術、取手、坐取などの稽古も開始します。

目録免許

 状況に応じていかようにも体を動かすことのできることができるようになる位です。たとえば基本二十一箇条に当身を入れたり、蹴足を入れたりということを自由に行う稽古をします。伝授は表裏十四箇条で、このほか中刀、六尺棒を稽古します。目録からは法伝という祈祷や精神統一にかかわる方法や怪我をしたときの応急処置法なども加わります。切紙と目録を一緒に伝授する場合を中段免許といい、出稽古などに行われる例があります。当流の伝書に技の具体的内容ことを書かない伝統があり、目録免許は課題名や図が多くありますが詳細は師から弟子に立ち合いで伝えることになっています。星家ではこの内容を非常に尊んで完全な伝授は限られた者にのみに伝えましたので、目録の内容といえども全伝を知る者は極めてまれです。

甲冑免許

 甲冑免許は「本来の中極意」とされ、甲冑を着用して種々の武器の扱いを本格的に学ぶ段階です。幕末までは武器術は当然のこととして稽古しましたが、明治以降は一般には柔術だけを教授して、武器術のほとんとが相伝者のみ伝える内容となりました。甲冑免許者はまず柔術形としての「素肌甲冑」表裏十四箇条を学び、次いで甲冑を着用して鎧通、鼻捻、陣太刀、陣笠、陣鎌などの「本甲冑」を稽古します。本甲冑は明治以降は星清右衛門、星彦十郎、星国雄 (拳心斎)と相伝し、明治百年を機に星国雄宗家がふたたび一般公開しました。従って本甲冑の技はごく一部を除いて星国雄宗家の弟子のみに伝えられています。相伝の完全な形は当道場のみです。法伝には流儀の活法が加わります。甲冑免許者は師範代となり道場を開設することができます。 

 

小具足免許

 鎧通、鼻捻などの小さい道具を小具足と呼んでいます。これらを使っての甲冑組打の真体を学びます。柔術は一般には表裏十四箇条で、さらに剣術も奥の太刀が伝授され、流儀最高の姿である無刀の位も示されます。ただし、ここでの形は「およその無刀」です。無刀自体が心法と不可分のため、真伝を得た者はごくわずかです。当流の最も難透の関です。

皆伝

 師は伝書をしたため、流儀の守護神を勧請して技と口伝を伝法します。一般用の皆伝は目録以上の者に出すことができるため、過去には甲冑や小具足伝授をせず、切紙、目録、皆伝とする例も多々ありました。伝授は柔術形です。伝えるべきものは伝え、武道家としての自己を確立した、つまり意地、覚悟を確立したことを師が証明するものです。ここからはさらに多くの経験を積んで、共に学び、それぞれの家業に励みつつ流祖の心技を自他のために活かすよう絶えず行に徹していきます。星貞吉門下に皆伝者200名以上と言われており、当流を人生の友とした諸先輩が数多くいたことが分かります。ここに至って真の無刀ということになります。心眼流は無刀に始まり無刀に終わるといいます。星国雄宗家も「無刀ができれば皆伝だ」とおっしゃいました。

 

相伝

 一子相伝、唯授一人などと記され、一流全ての心技を相続したことになります。星国雄宗家は29歳の時に父である星彦十郎先生から一子相伝を許されました。相伝のときには親子の縁を切った後に相伝の伝授を受けています。10年間そのことを伏せて修業してから初めて相伝者であることを公開しました。以後は東奔西走して当流を伝え、90歳になっても気力は衰えず、最後に倒れたのは稽古場でした。