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2020-03-26 06:07:00
神様降臨の儀

長ネギ苗を植えています。

今年のネギは無肥料栽培に挑戦。

 

無肥料で野菜を育てる=自然農

を始めたきっかけは人からの依頼でした。

断片的に話しを聞いてなんとなく納得しただけで、

その意味について自身の言葉にして説明する事が難しかったのですが、

実践3年現在の時点ではこう考えてます。

 

自分が考える自然農の意味は「原点回帰」です。

 

現代人の腸内細菌は昔の人より種類が少ないと言われます。

現代でも昔の伝統的な暮らしをしているアフリカの原住民の腸内細菌は多いのだとか。

 

わかりませんが、土着菌の多様性が腸内細菌の多様と関係しているのでは無いかと思います。

 

化学肥料を施した畑だと、植物と共生する微生物は存在意義を無くし、いなくなってしまう、

すると、肥料気の多い土では微生物の種類が少ないのではないか?と考えられます。

 

「その野菜を食べ、続けているうちに現代人も腸内細菌の種類が減ってきている?」

 

多分直結してるわけではないけど、土と腸は同じ理屈が働いて現象するのです。

有機農業もまた、微生物生態系は豊かになる環境であっても、生産性を優先すれば同じ仕組みになり得るかと思います。 

 

そこで「原点回帰」

 

自然農で採種し続けた野菜は生命力が強いです。

これは植物と共に、共生する菌によって肥料依存から脱却した循環が働いているのだと思います。

 

それは、かつては共生していたけれど、

今は存在意義の無くなっていた"菌の復活"。

 

そしてその種と菌を畑で栽培し、温存していく事が

"自然農の意味性"では無いか?

 

そう考えて今は栽培を試みています。

 

 

この考えが妄想だとして… 

 

菌の多様性が土壌の調和を保つという事は既にわかってきている事の様です。

 

コロナが深刻になってきている中で、いい加減な事は言ってはなりませんが、ウイルスや病原菌の繁殖は微生物の均衡が崩れているから起こるという事も考えられる、と私は思います。

 

今回のウイルスの流行が無事、収束します様に。。。


2020-03-12 18:33:00

当農園は長野市街と小川・白馬村の間にあります。

 

街と村の間、人と獣の間、山と盆地の間、上杉と武田の間…

流れ流されて、ここに辿り着きました。

 

ハンパに生まれ、ハンパに育ち、ハンパに生きて…

思うに住み着くその土地も、何か必然があってそこにいるのかもしれせん。

 

間という概念として、間の生きる意味を考える

これが自分の与えられた目的なのか?と。

 

というわけで、

今後の方針が決まりました。

というか、決まっていました。

 

 やる事は変わりませんが、今年からシーズンを分ける事にします。

 

夏〜秋の野菜は

品目少なく、

土地にあった作りやすい野菜を、

有機農産物の量的普及と、

己の収入の安定を目指します。

 

冬〜春の野菜は

多品目で、在来種や赤野菜等、

個性ある多様な野菜を育てて

意味性を求めた農業を目論んでみたいと思います。

 

 

真田十万石の膝元、天と地の理によって

半端者はその道を右往左往しながら渡っていくしかない 

 

方向は己が決めるんじゃなく時代が決めるのだ

と、考える事にしました。

 


2020-03-01 20:15:00
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毎年冬にボカシ肥料を作ります。

 

ボカシが発酵すると酒の匂いがして、40〜60°くらいまでホカホカに温まります。

米糠に菌が廻った所で冷ましたものを畑に撒き、畑全体を発酵させる狙いがあります。

 

今年は竹炭をこの中に混ぜて作っています。

毎年竹炭は、長野市の山村に生える竹林の整備を行っているボランティアの方々が炭にしたモノを買い、畑に投入してます。

今までは畑に直接撒いていましたが、ボカシに混ぜれば一石二鳥です。

 

炭にはco2を固定し、地中に閉じ込める効果と、

微孔に微生物が住み着くことで菌を増やす効果と、

通気を良くして、腐敗菌を抑え、植物の根張りを良くする効果と…

沢山のプラス効果が期待されます。

 

クール&リサイクルで野菜を育てる「クルベジ」という企画で4年前からNPOの方と協力し、畑に投入しているのですが…  

「その効果が出ているのかいないのか、実感としてわからない」

というのが、悩ましい所であります。

 

ボカシ肥料も同様な感覚はありますが、量や熱で効果があるのは"なんとなくわかる"、が炭にはまだ無い。

 

この行為が大きな力となって現れるまで、

唯々、信じて続ける。

 

オマジナイに近い行為だと思います。

"信じる者は救われる、途中で止めたらそれで終わり"

的な感覚。

 

 

効果は証明された事なのか?

もしかしたら伝承なのでは無いか?と思いますが…

  

 

でも考えてみたら、有機農業の魅力はそこなんです。

 

 

決められた資材を決められた量投入して、

毎年100点野菜を目指す栽培に、あまり関心が無く

(だから儲けられないと言われればその通りorz)

 

むしろ、数理できっちり決められた世界から、

自由になりたかった。

 

初めて有機農業に触れた時から、

無意識にその可能性を己は求めていたのでは無いか?

と細菌は思います。

 

「土が育っているという実感を得る為に、

今年上手くいかなくても来年も繰り返し、

やがて野菜と共に土が育つのを待つ」

という事にもう一方の価値がある様に思うのです。

 

現実問題として、待ってはいられない状況もあるのですが、

 

"物ではないモノ"に意味を見出したい

 

そのカギを握っているのが

"微生物"ということになります。

 

 


2020-02-17 23:49:00

 「神」といえば、反語は「遺伝子組換え」です。

 

もし科学信仰に意志があるのならば、到達点は遺伝子を解明して神を操る事にあっても異和ではありません。

 

日本は世界一の遺伝子組換え技術の特許を持っている科学信仰の国です。

 

 

今、なぜ遺伝子組換え作物が世界では反対されているのか?

 

一番直接的な原因としては、

実用された遺伝子組換え作物は

除草剤耐性の為に開発された作物が殆どであり、

その成分は人体には害がないとされていましたが、

植物と微生物の持つ管(シキミ酸経路という)を詰まらせ殺す成分なので、

摂取すると腸内細菌を殺し、腸にダメージを与え、障害や病気を引き起こす。

同時にそれは土壌細菌を殺し、環境にダメージを与える。

 

と言う話が広まった為の様です。

 

被害者が続出し、開発したモンサント社に対する訴訟やデモが世界中で起こった結果、遺伝子組換え作物とラウンドアップ(除草剤)は反発を受け、日本以外の大きな売り先が無くなってしまった。

そして日本だけが遺伝子組換え作物の大量輸入を受け入れた。

 

という話が伝わっています。

 

日本の食品メーカーには国から遺伝子組換え作物の使用を指導されているらしく、表示義務の無い分量、どの会社でも使われているのが現状です。

 

 

諸外国民の反対は安全への科学的根拠以上に

企業の体質への不信、宗教観、環境破壊への認識が強い様に感じます。

"安心安全"だけでは無いのがポイントです。

 

 

  

「神殺しとはいかなるモノなのか?」

 

科学信仰は必然的に神の領域を暴く事を目指す思想です。

でも勇み足なのでは?

先頭を歩いてるつもりが孤立になってるのでは…?

 

国が国民を危険にさらす様な事をする訳がない、

とは今も思います。

 

しかし、微生物が八百万神とすると、ラウンドアップ除草剤はまさに"神殺し"。

 日本はアメリカとモンサントの尻拭いをする羽目なり、

 これから神の呪いをモロに喰らう、という事になるのかもしれません。

 

ただの虚構かもしれません。

日本の自然は再生力があるので、わからないのが問題とかなんとか…

 

  

今後は「遺伝子組換えではない」の表示が消え、

遺伝子組換え作物が日本に大量にやって来る、

というシナリオになっております。。

 

視えないモノの"気"を注視しましょう。


2020-02-06 12:28:00
  • 私は科学の徒です。
    ”子”じゃ無くて徒長の”徒”です。

    子供の頃はサンタクロースや幽霊を信じる様なハッピーな子でした。
    が、思春期以降は形の無い概念を信じない唯物主義でした。
    参拝や葬式は宗教が行う詐欺行為だと思っていました。
    自分には物質で無い”モノ”にお金を支払う価値がわからなかったのです。
    社会に出てからの自分は発達障害や引きこもりという存在に近いのですが、それは何か、精神的な”モノ”の欠如と関係がある様に思います。


    農業は祭事と密接なつながりがあり、信仰を持っている人との関わりも多数あります。
    農業に従事した当初、そういう事との関わりに恐怖を抱く事もありましたが、多少価値観が変わってきた様に思います。

    数年前に池上彰さんがテレビでアメリカの特集をしていた時、「アメリカ人の8か9割は神様を信じる宗教国家だ」といった話をしていて、ショックを覚えた記憶があります。
    その時、ほんの一時だけ「己に足りないモノは信仰心か?」という考えが浮かんで、それは記憶に残っています。

    農業を始めて、少し物質的豊かさに対する憧れが減り、しかし同時に精神的貧困を感じ…
    そうなると、ほとんど今まで無関心だった神の存在が気になってきます。
    科学信仰によって神の存在を否定していたけれど、完全にいなくなったわけでは無いのです。


    豊作の時に言う「神様の恵み」は八百万の神様が有機物から無機物を生産して野菜を育ててくれた恩恵。
    八百万の神様は存在し、今も土を少しずつ豊かにしてくれている。
    でも現代の人口に対しては神様の恵みよりももっと圧倒的なエネルギーが必要になる。
    化学肥料の恩恵によって現代人の殆どは生かされている。
    神様の恩恵よりも科学の恩恵を享受する人の方が圧倒的に多い。
    だから人間は科学を信仰する、ですよね?

    大地の疲弊は100年前から心配されていて、再々自然派ブームが来ては、度々流行で終わる。
    「今回の気候変動こそはホンモノだ」
    かどうかは、やはり深刻になってみない限りわからないのですが、
    私自身は科学信仰の未来がどうであろうと、神様の創造する事が未来を生きる糧になり得るのではないか?と思うのです。

    八百万から始まり、神仏の概念は更新に更新を重ね、やがてキリストやブッダへと創られたのではないか?

    神様という概念はみんなが何世代にも渡ってミクロの存在をマクロの存在まで繋いできた”育てる概念”なのではないか?

    日本人の神様は急に創り変えたり、心中したり、輸入したり、無視してるウチに霧散霧消してしまったけれど、もしかしたらこれから必要になるのではないか?

    科学が日本を覆い、神は不要になって見えなくなってしまったけど、物質層を剥がしたら、どっこい生きてるのではないか?


    八百万神は昔も今も存在しています。
    これからは神様を創る時代がやってくる!?

    です。

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