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前半続き
花芯を食べられるとその時点でキャベツの生長が止まり、
キャベツも死んでしまうし、
中の芋虫もそれだと餓死してしまいます。
毎度この花芯を食べられやしないかと、ヒヤヒヤするのですが、
殆んどそれは見たことがありません。
もしかしたら彼らは"意識"を持っているのてはないか?
"花芯を食べたら終わり"だと
わかっているのではないか?
これはキャベツにつくモンシロチョウの幼虫に該当する事で、他のアブラナ科につく虫も同じというわけではありません。
キャベツと違って隣に移動するのが楽だからかもしれませんが、
株を食い尽くしては隣に移動していきます。
モンシロチョウの幼虫だけが違う性質を持っているのかもしかれません。
その進化を"知性"と呼ぶとして、
モンシロチョウに知性があるとすれば、
人間との交渉もできるのでは?
つまり、
「キャベツの端だけ食べるのなら、人間はあなたを襲いませんよ。」
とわからせれば、モンシロチョウはいつかそう進化するのではないか?
交渉といいましたが、全ての芋虫を生かすわけではありません。
中にいる芋虫は潰し、
外っ葉についている芋虫は見逃す、
それを何年も繰り返してるうちに
芋虫は意識するようになる
=進化する、ということです。
これによって、芋虫の生態も変わっていくはずです。
はず。
従来は交渉の余地なしと農薬で一斉に殺します。
それだと虫も卵の数を増やす様に進化します。
病原菌と同じです。
農薬に強くなり、
繁殖力を高めていくばかりです。
虫との交渉が可能なら生態系を壊さず、共存する道になる。
なるはず。
深謀遠慮すぎて謀り事になってない、
まさに「無謀」
ただの自然の営みとも言う。
しかしこれこそが、
人と環境とが共存する最も理想的な在り方なのでは?
と妄想える次第。
今年はキャベツの栽培が上手くいきました。
毎年上手くいかないものが沢山あるのですが、キャベツもその一つです。
握りこぶし大になってしまったり、芋虫に食われてしまったりしてマトモに採れた事があまりありません。
私は心密かにキャベツの事を"農家殺し"と呼んでおりました。
生育期間が長く、レタスの二倍(およそ120日)くらい時間が掛かり、畑のスペースを大きく取るのに、市場では安く他の野菜との質量のバランスを壊して全く釣り合いがとれません。
無農薬の栽培では畑に放置する時間が長いほど管理が大変です。
完全に不織布で覆うことで虫の被害を避けられますが、
雑草が隙間からわんさと生える為、蒸れて病気になることもあるし、
高い不織布の上で雑草が鋲の様に繁り、一回で使い物にならなくなったりする事もあります。
慣行栽培ではマルチも不織布も要らず、だだっ広い有名産地では適しているのだと思いますが、
よくモンシロチョウ一匹飛んでない、と形容される様に、農薬による環境ダメージは心配ではあります。
キャベツの産地ではその土地でなにも作れなくなったというエピソードをたまに耳にします。
私の畑がある七二会地域の一番山にある畑も、昔はキャベツの産地ですが、そう言われていました。(現在は他の野菜は作れているようです。)
害虫が耐性を持つため、農薬の開発との鼬ごっこをなっていると言います。
「農家か環境か」どちらかが犠牲になって、キャベツは安い野菜として消費者に届いていると思います。
今年のキャベツは不織布の破損も少なく、ビニールマルチも使わずできました。
初期にある程度健常に育つと、キャベツの生長が食害のスピードを上回り、露地に剥き出しでもやられにくい様です。
苦労はありますが、シンプルな栽培法でできる為、"My"有機JASの野菜として開拓していきます。
需要は多いため有機野菜として買ってもらえる消費者を増やせれば、今後有望な野菜になりえます。
とはいえ、芋虫は沢山いるので、定期的に監視していかなければなりません。
芋虫を駆除してるうちに、
とても、とても、
無謀な事を妄想いました。
後半へ続く
私は地球に住む生命の人という種類の皮袋に納まる菌の集まりです。
私は集合的無意識の中の、
あなたの無意識であり、
私の意識は60億分の1だけの氷山の一角です。
私は日本にルーツを持つ菌帯。
日本という表意識の、
私という唯一の無意識です。
私は人の、日本に生まれたものとして、自己主張しなければなりません。
たとえ無能で愚かな存在であろうと、
無数の菌から選ばれた依り代として、
私が存在している事を表明しなければなりません。
たとえデクノボーで、力尽き苦しくても、
同じことを繰り返しながら、生きていかなければなりません。
皆は皆が生きていることを主張しなければなりません。
みなさんも頑張って下さい。
「自分」「チワワ」「小松菜」
これらはひとつの共通する概念を持っています。
そうです。
人の庇護下に置かれないと生きていけないカヨワき種です。
私もチワワも人の群れから外れて野生の中で生きていくことはできないでしょう。
小松菜はとても育ちやすいですが、自然的な環境にとても弱く、
「一体この種の祖先が生まれた環境はいつ、どこなんだ?」
と思うくらい、いつ種を撒いても虫の食害に遭い、ズタボロになってしまいます。
彼らの適正の環境は「無菌の環境」であり、菌を殺した土に化学肥料を撒いて育てるのが理想の環境です。
私達は食べやすさ管理のしやすさを求めて小松菜を選びます。
私達は可愛さや携帯し易さを求めてチワワを選びます。
自分は半端者なので、意味なく消滅するかもしれませんが、人もまた管理しやすい程、生き残るのかもしれません。
しかし私達が"菌の住む皮袋"であることを忘れてはなりません。
現代人は腸に生息する菌の種類が昔と比べ減っているそうです。
これはエビデンスのあることだそうです。
菌の多様性は人が生き残っていく過程で生息圏を拡大する度に取り込んできた法則と歴史の様なものです。
人類が拡張する度に様々な菌やウィルス達との抗争があり、人類は敵を駆逐していきました。
一方で敗者の血を取り込み、腸のなかで共存し続けています。
異種を滅ぼした記憶は歴史として腸に刻み込まれ、繰り返し、法則となっていきます。
しかし近年、この法則から外れ、私達は腸内細菌を減らしています。
腸内細菌の種類が減るのはどうしてなのか?
その原因は
農薬の使用、
加工食品の過剰摂取、
食物の単純化
によるものだと考えられています。
私達の主食は米か小麦、とうもろこしです。
品種は50年前と比べても激減しており、それを油で焼いたり揚げたモノをよく食べます。
小麦粉や揚げ物は内臓を炎症させると言います。
野菜は種類も量も摂取量が減って、選ぶ野菜は食べやすく扱いやすい野菜ばかりです。
世界一農薬使用量が多い日本は世界一農薬摂取量も多いはずです。
"カヨワき種"は無菌性によって繁殖することができます。
腸内細菌が減れば減るほど、
生命体としては脆くなっていき、
歴史を逆行し、法則から外れていく…
私達は人の群れに適応できても、自然界には段々弱くなっていきます。
私達は野生を取り戻さなければなりません。
小松菜は小松菜ですが、自然に近い環境で交配を繰り返していけば、やがて自力で生きることができるかもしれません。
からし菜等、"自然の"野菜は肥料をあげずに自然に近い環境で育てたものを、採種しています。
からし菜は自らの抗酸化成分を土の中の害虫防除に使い、身を守ります。
だからアブラナ科のなかでも自然環境に強いです。
野生を食らえば、腸内は多様性を取り戻せる―
腸内細菌の多様性はその人を健康にする-
健康な人が増えれば、
社会が健康に、国が健康に、
と繋がっていきます。
勿論一つの野菜を食べたところで簡単には変わりませんし、
食べ物が軟らかく食べやすいから栄養を吸収しやすくなった、という文脈もありますが、
私達が食べているものは"思想"です。
私達は普段、管理しやすい、甘くて軟らかくて、カヨワくてkawaii生き物を目指して、生きています。
私は"カヨワき人"代表として、
その道に未来はあるのか?と
警鐘を鳴らす菌の依り代であり、
あなたの無意識です。
少々長くなりましたが、まとめると、
「自然の野菜、いかがですか?」
です!
アマランサスと赤モロコシを緑肥として畑に鋤き込み、その畑で作物を育てた野菜を「アカの野菜」として、独自に試みてます。
アマランサスと赤もろこしは一般的に緑肥として利用する燕麦やライ麦等と比べて主枝が太く硬く、無理やり耕していたら、トラクターが壊れてしまいました。
浅知恵でした。
更にはこぼれ種から沢山芽が出て、去年は除草作業が大変でした。
今年は赤モロコシは普通に収穫し、来年から緑肥利用は止めます。
アマランサスは来年の種分だけ残して他は穂が出る前に耕しました。
こうすると軟らかいうちに鋤き込めるし、こぼれ種から再び芽がでないので、畑が赤に支配される事もありません。
反乱分子は芽が出る前に摘み取れば良いというわけです。
ただ、景観植物として使えないのが残念です。
アマランサスを緑肥にする意味を改めて考えました。
有機農業も連作すれば、畑の土壌成分バランスが乱れます。
何かしら栄養の欠乏が現れるので、肥料を人工的に補うのですが、一つ自然の物では補えない成分があります。
なにかと言うと、それは「マグネシウム」です。
人間の体と同じく、植物も塩基バランスというモノがあり、「カルシウム、カリウム、マグネシウム」のバランスが偏ると欠乏症が現れます。
マグネシウムは必須ミネラルなのですが、実は天然資源としては貴重で、外国産のマグネシウム鉱石一択しか有機資材として販売されていません。
他は化学合成されたマグネシウムとなるので、有機農業としての使用は禁止されています。
連作しなければ滅多に欠乏するものでも有りませんが、持続可能な農業としては少々不安要素と言えます。
そこでアマランサスです。
アマランサスは鉄分が豊富な植物です。
仲間作物のビーツは血液を増加させる効果があるとして知られています。
マグネシウムも多く含まれています。
イネ科の玄米等にも豊富に含まれてますが、葉や茎に含まれているかどうかは未知数。
しかしアマランサスや仲間のビーツやゲイトウの葉には鉄分が含まれる為、葉茎にもミネラルの含有量が高いのではないか?と私は、思っています。
アマランサスを耕した畑ならミネラル豊富な野菜が育つ、とまではいかないかもしれません。
でも、一つの野菜の出来映えに注目するのではなく、土壌の永続性に焦点を置かなければ、有機農業の本当の価値は見えてきません。
「アカの野菜」にはそこに可能性があるのではないか?と想っているのです。
おらが村にはゴッドファーザーがいます。
ゴッドファーザー(以下略してGF)は個体として存在してるのではなく、菌態として組織化されて存在し、村社会全体に影響力を持ち、GF無くしては村人の生活の安定はありません。
私達農家はトラクター等の農業機械の購入·メンテナンスや、農具の入手、販売ルートの確保等、お世話になります。
GFの銀行もあります。
GF銀行の口座がなければ地元の直売所は、野菜を販売する許可を得られないし、壊れた機械を修理することはできないのです。
その他、ガソリンスタンドや飲食店等様々な業界で私達民間人の生活に関わっているのです。
全くGF様様で大変有り難くもあるのですが、
唯、GFと相容れない部分があるのです。
農園の地域には車で5分のところにGFの野菜を卸す青果場があります。
しかしそこでは有機野菜を扱ってはおりません。
卸すことは可能ですが、その場合は有機野菜としては出荷できません。
「私の野菜はただの粗悪な野菜です。そしてそれを少ししか作れませんが、どうか納めさせてください。」と言って納品しなければなりません。
(直接言葉に出して言わなくても良いが、心の中で呟かねばなりません。)
GFの影響は全国的で、市場は充たされ、有機野菜はずっと闇に葬られてきました。
有機農業はカルトな宗教として、公から排除されている仕組みになっております。(大袈裟ですが)
有機農家は市場がない為、直接販売店と契約したり、個人宅配をすることで細々と生き残ってきました。
現在は野菜セットのインターネット販売も認知されてはきましたが、それでもニッチな市場であることに代わりありません。
狭い市場を奪い合いになり、私のような一人ムノウ農家には厳しい現実があります。
ならば有機野菜を扱う大きい販売店へ単品で卸せばよいのでは?というと、
ズッキーニのような作りやすい野菜ほど、既に先行の有機農家に販路が抑えられているため、そこにも入っていくことが難しいのです。
私は有機野菜を一般の人に広めたいとい思っていたので、殆ど野菜は地元のスーパーや、出荷を終えるのに一時間は掛かる都会への集荷所まで、全て個包装で出荷するという無謀を続けていますが、たまに現実を思うとシンドくなります。
このままではシネます。。
でも
工業化して機械のように自動的に働きたいワケではなく、
理解のある消費者に買ってもらい、閉じられたニーズの中で満足するワケでもなく、
自然の中で健康的に生きられれば満足なワケでもなく、
マイノリティな価値を一般に普及して世の中に広める、というのが自分のやりたい事なのです。
日々混乱し、生きてる意味がわからなくなるけれど、意味はあるのです。
世界の情勢に合わせて、2050年までに有機農地を25%にする、という目標を農水省が掲げました。
有機農業を公儀がお認めになりました。
御上が下した方針ですから、きっと日本は自動的にそうなるのですが、
30年後は私も生き残っておりません。
2050年までの期間は影響力が強いGFの組織がどう形を変えていくか?
分裂するか統合か、の変態をしていく期間になると思います。
GFの存在は日本農業の未来を左右します。
言葉が出ません。
もう寿命かもしれません。
「言霊の神はシンだ」
神はシンでも、身体はまだまだシネません。
私はバカで非力で微力ですが、
魂と身体とお金が燃え尽きるまで、
頑張ります。