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炭を撒きます。
今年で6年目くらいでしょうか。
廃竹を炭にして畑に撒けば二酸化炭素を封じ込め、温暖化防止に繋がる
という理由で始まりましたが、
最近は地球温暖化の懐疑的な意見を聞くことがあっても、その逆はあまり言われなくなったように感じます。
しかし、
炭を撒く目的は一つではありません。
炭は微生物の住処を増やす。
炭の中の無数の穴に微生物が入り、営みとともに土壌が豊かになる。
と考えられてます。
が、やはり実感としてはよくわかりません。
それでも毎年、炭は撒く。
意味があるかわからないことに創造の種がある。と思う。
創造は全ての人がやるべき、やりたい
人間の本能みたいなものだと思うのですが、
それは有能な研究者や大手企業がやる事で、凡庸な一個人にできることはあまり失くなってしまいつつあるのではないかと思います。
新しい品種の種を創造するのは個人が産むより大手企業の方が圧倒的に早い。
新しい物、新しい技術、新しい販売方法、新しい概念、
創造行為は全部やんごとなき人達のする事で、
ムノウな己はいつの間にか、ただ機械みたいに生産するだけの、あるいは只々消費だけするの何かになってしまいます。
自分の力で何かを産みたいです。
その意識が強くて私はしばしば模倣を嫌い、
他の人の三倍進歩が遅れてしまうのですが、
やりたいことはそれなんです。
しかしなかなか創造は難しい…
とても小さく、何かを産んでるのかもしれないが、それが形になることは無く。
ある一定の行為を何度も繰り返しているうちに、そこに意味が生まれるのを待つ。
そこに生命が、魂が宿るのを待っています。
それは"おまじない"や"祈り"に似ています。
ほんの少しの理屈とほんの少しの実証を頼りに、何かが生まれるのを願って"行為"を繰り返す。
呪術はいにしえの、人間の創造行為の始まりで、
フロンティアを失った現代人の最後の手段。
創造するのを止めたら、人間じゃなくなると思います。
ただの二酸化炭素を排出する塊です。
それを「ゾンビ化」と言うんじゃ無いか?
魂の腐敗がガスになって、
上空を覆いつくしてしまう未来を、
私達は恐れているのじゃないか?
わかりません。
正直、自分の方がゾンビ化してるんじゃないかとも思うのですが。
「何かを産みたい心の火」を消さない為の行為、それがある限り希望は無くならない。
と信じたいので、己は今年も炭を撒く。
それを見て人は云うでしょう。
「おぉ、まるで女子高生の様に健気デスネ!」
と…
私は心が空っぽです。
何か重要なものが心の中からスッポリ抜け落ちてる様な感覚。
普段は忘れているんですが、たまに人からなぜ有機農業をやってるのか?とか、人生の目的はなにか?やりたいことはなにか?を聞かれることがあり思い出す。
無職で引きこもりの時から、学生の時から、心の中は変わっていない。
未だになんのために生きているのかはわかりません。
他の人にはそれがあると思うと、
自分だけが置いてきぼりになっていることに気がついてしまう為、
無意識に観ないようにしてしまうが、
この空虚感とはこれからも憑き合っていくのだろう、と思います。
心の中が空っぽだから、
意味とか真理を求めて、
理屈を考えて、文にしてここに書いています。
私がよくここで言っているネタには「時代」という言葉がよく出てくる。
「時代がそれを求めているから、私はそれをするのだ。」
という理屈で自分は農業をしている。
もしくは化学による純粋な精製物質が体に良くないから、自分自身や他の人を健康な方向に導く為に農業をしている。
色々な理屈を自分と他人に結びつけて、農業をしている理由を作ろうとしている。
その理屈の多くは間違ってはなくて、
確かに自身や社会の問題と繋がっているんですが、そしてそれを考えるのは面白いですが、
心の動機にはならない様です。
「あなたは何故それをしているの?」
と聞かれたら胸苦しく悩んでしまう。
私は失った人生を取り戻したいです。
思春期辺りから失ってしまった自分の心を取り戻したいです。
でもどうしたら取り戻せるかわからないというか、絶対に取り戻せないと確信しているので、
別の心の動機を作りたいです。
ADHD等の自閉症スペクトラムの人は同じ失敗をする。
他人から嫌われたり、愛されない理由は皆共通する同じ行動があって、皆一様にそれを繰り返している。
それはある意味運命で、当たり前の事だと思えば良い。
健康や食のことを勉強し始めた当初、
糖質や農薬が自閉症を増やすという論があるのを知り、心の問題と繋がっているのだと思ったけれど、
性格は産まれた時から決まっているということもわかり、
自分の悩みは産まれたときに既に決定している所もある様です。
その当たり前の運命に躓かなければ良いだけなのに、
躓いて、悩んで、立ち止まってしまった。
自分の性格は信念を持たないと、産まれたときから決まっている。
その場しのぎで時代に適応していくタイプだと決まっている。
だから悩まず時代に流されれば良いのでは?と今は考えています。
いつも小難しく屁理屈申しますが、
時代に流されるとは流行に乗る、
ということです。
私はただの流行に敏感なトレンディ農家です。
今はこういう時代だから、この農業スタイルがある。
自分はこうしたいという信念に突き動かされて生きる個性の人ではなく、
時代に適応したやり方を色々試して、
模索しながら、
未来に残る農業を見つけたい、
そういう個性の人だと思います。
だからファッションの流行に敏感な女子高生の様に、生きれば良いのです。
"卵"は完全栄養食と呼ばれる事があります。
何故かと言うと卵一個が生命体を作り出す全ての要素を内包しているからだと。
生きるのに必要な要素はとりあえずその白い殻の中に全部詰まっているのだと。
植物に置き換えると"種子"に該当するかと思います。
なので玄米等の穀物も完全栄養食といえるかもしれません。
でも玄米等の穀物も殻の下に毒性を持っていますし、大豆や野菜の種子にも毒性があります。
動物の胃腸で消化されないように実を守ってるワケで、動物の卵とはそこが違います。
高栄養価とされる「スーパーフード」には穀物が多いです。
穀物の他にはナッツとかベリー類とか、殆ど共通するのは"種子ごと食べられる食物"であることですが、そのスーパーフードの一つに
「ブロッコリー」という野菜があります。
ブロッコリーはビタミン、ミネラルの他にタンパク質が豊富など他の野菜よりも一段高いレベルの栄養価があると近年注目されていますね。
菜花も同じと考えられます。
ブロッコリーはアブラナ科の菜花です。
そして菜花は植物の卵と言っても過言ではありません。
生命を産み出すのに必要なエネルギーの要素を土から根から全て汲み上げて、花を咲かせます。
花は花粉と卵子の塊です。
花には虫も集まるし、見えない微生物も集まります。
菜花は束ねると熱が出ますが、
ただ植物が呼吸してるから、と考えてはいけません。
そこには生命の産まれる為の躍動のエネルギーがあります。
その高いエネルギーを求めて
微生物達も春を祝わんとばかりにそこに集う。
そしてそのお祭り連中ごと人間が"頂く"。
そう想像すると、
菜花はありがたい食べ物だと思えるのではないかと…
ナバナはバランスが良く、高栄養価の
「野菜のホームラン王」なのです。
左3本は昔から日本にある在来種の人参、右3本はみんなに人気の"スーパーヤサイ人参"です。
直売所に並べるとその鮮売力の差は歴然で、在来種はハネだされゴミ扱いされてしまうほどです…
"スーパーヤサイ人参"とは特定の在来種と別の在来種の交配によって産まれる超·在来種とも呼ぶべきもので(一般にはF1種という)、
色形味が揃う、耐病性を持つ等、一代限り優れた遺伝子を持ちます。
弱点はスーパーヤサイ人参の子供は必ずスーパーヤサイ人参になれず遺伝子が分散してしまう事。
種子メーカーは両親となる在来種を保持し、存続する事でスーパーヤサイを大量生産します。
かつて、この親となる品種の組合せを発見する事が種子メーカーの夢であり、メーカーの生き残りの鍵でありました。
一つのスーパーヤサイが産まれ、お客さんにヒットすればメーカーは儲かるし、生き残れる。
種子メーカーが乱立する時代はそれが経済的にも良い循環をもたらすものでしたが、時代と共に事情は変わります。
競争によって淘汰されていった結果、巨大企業だけが市場を独占する事になります。
巨大企業は資金力がありますから、圧倒的効率でスーパーヤサイ、スーパー穀物種子を開発し、大量生産する事ができます。
これもまた自然なことではあるんですが、
品種が激減してしまったり、遺伝子組み換え作物が出回ったり、問題もあります。
なにより日本が種の生産弱者である事も大きいのです。
種子生産は広大な面積と動員の確保ができる企業が有利です。
日本の企業は新種を産む技術は持っていても国内生産力はないので、海外で種子を生産するか外国メーカーに委託します。
現状、外国産種子の価格は高騰してますが、日本が貧しくなればなるほど苦しくなり、
最悪、外国企業による種市場の独占ということになるかもしれません。
「なる」と、今まで想像できませんでしたが、想像できる所にいる様な気がします。
飛躍しましたが、
そこで在来品種が重要になってくるのです。
在来種は地味で、格好が悪くて、甘くない。
でも農家が採種できて、国内自給ができて、
スーパーヤサイよりも栄養価が高いとも言われています。
スーパーヤサイは確かに魅力的で、
愛される"みんなのヒーロー"なんですが、
私達自身では無い。
私達が目指す夢であり理想ではあるが、
文脈では無くなってしまうかもしれません。
スーパーヤサイヒーロー達の活躍をスゲースゲーとただ消費していたら、いつの間にか
「私達の物語は失われる」かもしれません。
だから一歩昔に戻ってルーツを観ることも必要です。
ヒーローの登場を待ち望むのではなく、私達自身が物語の主役になるべきです。
その時、少年は青年へと跳ぶことができる…
日本という塊魂が成熟する分岐点に来ているかもしれませんね!
信州の冬、
大地は凍てつき、
野菜も凍ってしまいます。
根菜等の野菜は土中に埋め、貯蔵する事で冬に備えます。
それは昔からある北国の人の生活の知恵です。
冬は貯蔵した野菜のクズ=残さが沢山でるので、畑にバラまきます。
残さは春から秋にかけてはあまりに沢山だと、
大きい分解者(虫やミミズ)を発生させるため、
扱いに注意が必要な様なんですが、
冬はむしろ良いのではないかと考えてます。
"畑は人間の腸の延長"。
"腸内細菌の故郷は畑の土"
です。
腸内細菌達は過酷な自然の天候から生き延びるために、船を造りました。
「ノアの方舟」とは私達有機生命体のことです。
方舟に乗れなかったヒト達も当然いますが、
私達だけが救われた訳ではありません。
方舟に乗らなかったヒト達も
仮死化したり、植物の根にしがみついたりして、
干ばつや、洪水や、厳冬を乗り越えて、
今も生き残っています。
畑の微生物は冬眠し、
有機物は腐敗しないので貯蔵が長持ちします。
土の上に残された植物の残さは、
凍っては溶け凍っては溶けを繰り返し、
気温の変化によって組織が自然分解します。
人間が野菜を煮込むのと同じです。
野菜を煮込むと食物繊維はクタクタに断裂し、
栄養素は水分の中にじっとり溶け込み、
腸の微生物にとっても食べやすいご馳走に変わります。
私達人間及び腸内細菌は、
野菜を煮込むことで消化を良くし、
英気を養うことで
冬を乗り越えていく。
一方、畑の微生物達は
冬中眠りながら、
野菜がクタクタに煮込まれるのを待ち、
気温の上昇と共に目覚めた頃には、
目の前にご馳走が拡がっているという寸法です。
微生物の暮らしの知恵は
云万年の時ををかけ、
私達の記憶として残されているのかもしれません。