教会のあゆみ

 

 

 

神よ、わが心は定まりました。
 わが心は定まりました。
 わたしは歌い、かつほめたたえます。
 わが魂よ、さめよ。
 立琴よ、琴よ、さめよ。
 わたしはしののめを呼びさまします」

(詩篇108編1,2節)

第一会堂時代(1960-76)

第1会堂

しののめ教会の誕生

1955年、大阪浪速教会(現城東教会)、千里山教会(現シオン教会)につぐ3つ目の大阪伝道拠点として、大正区の中村病院で集会がもたれるようになりました。これが現在のしののめ教会の母体となったのでした。
 現在の大飼綾子先生を初めに、神学生が交代で遣わされ、集会が数年続きました。1959年、当時神学院の2年生だった井伊英夫牧師が任命を受けて、本格的な伝道が開始されました。
 その年は、第2次の台湾伝道が大槻霊父によって行われた年でした。神学院では台湾からのニュースにチャレンジを受け、リバイバルと宣教のための燃えるような祈りが捧げられていました。その中で大阪400万の救霊のための祈りが始まったのです。さらに5月6日、神学院に起きた聖霊の傾注リバイバルはその後の聖イエス会の歴史を変えたみわざとなりました。
 このようなリバイバルの中で、各地の宣教が進められていきました。
 1961年8月、大槻霊父と京都・しののめ聖歌隊を迎えてもたれた、クリスチャンセンターでの特別集会は、連日満員となり、これを契機に教会設立の動きが始まりました。
 嵯峨野教会の会堂として1950年から55年まで、リバイバルに用いられた「ワン公ハウス」、その後1959年のあのリバイバルが起きたその「サフラン寮」が、移築されてしののめ教会の誕生となったのでした。

 

 

 

第1会堂における礼拝

 

1966年8月 東京あけぼの聖歌隊とエシェルン聖歌隊

 

1975年夏 アグネス聖歌隊

 

1976年3月 アンネ聖歌隊

 

1976年 ジュニアキャンプ(小豆島)

 

1976年8月 西宮聖歌隊を迎えて もつやく聖歌隊誕生 

 

第二会堂時代(1977-99)

第2会堂

第二会堂の献堂

 移転先の土地が与えられぬまま迎えた、翌1976年の春でした。神様はある祈祷会において「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」とのお言葉を持って、激しく臨まれました。イエス・キリストへの純金の信仰、その上に堅く立つようにとの聖霊のお迫りを受け、「汝はキリスト、生ける全能の神なり」との信仰を、一同が捧げたその翌日、同じ千里川沿いの土地が格安で与えられたのでした。
  当時の「黎明便り」第1号にこうあります。

「新会堂のために、神様が最善の場所を与えて下さるように、心を合わせて祈りましょう。そこがどこであっても、純粋な信仰の上に立つ教会でなければ、み旨をお喜ばせすることはできません。神的な教会のためには、神的な信仰、すなわち神から啓示された、天的な信仰が必要なのです。
「ダビデの子であるイエスさま、わたしをあわれんでください」 」

 バルテマイの貧しい心にこそ、神様は天の啓示を与えて下さるのです。主はまことに真実なおかたです。新しい教会建設のヴィジョンに向かってのスタートが切られました。
 その年の暮れには、建設会社との契約も済み、年が明ければ着工というところまで導かれました。

1977年1月 第2会堂起工式

 

1977年3月 ジュニア 小豆島キャンプ

  

1977年6月  献堂の祈り 大槻霊父

 

1977年6月  献堂式での大槻霊父と霊母様

 

1979年6月 教会で初めて咲いたアンネのバラ

 

1980年2月11日 ウィンタースクール

 

1980年8月11日 マリア聖歌隊誕生

 

1980年夏 高浜サマースクール

 

1980年9月 ロンドンのラビ・ルー師をお迎えして

 

1983年4月 第2会堂増築

 

1983年10月 マリヤ会 清心堂へ

 

1984年 アンネ展開催

 

1984年6月 長崎巡礼 深草ヨハネ教会と合同

 

第3会堂時代(1999-現在)