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せいゆう丸釣行記

2019-10-19 03:01:00
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鹿児島には大久保利通が嫌いなお方が多いらしい。

 

宮崎は鹿児島の隣県なのでその雰囲気は薄々感じてましたが、その理由は 「西郷隆盛を裏切ったから」 だそうな。

 

実際、大久保利通は日本の官僚機構を作り上げた偉大なる政治家でありながら、鹿児島に彼の銅像が建てられたのは没後100年の昭和54年だったそうで、建てる場所でも当時かなりすったもんだがあったそうな。

 

 

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結局、西鹿児島駅付近のライオンズ広場に建てられたそうだが、 「何で朝っぱらから不愉快な顔を毎日見なくてはいけないのか?」 と、徒歩の通勤サラリーから不満の声が今でも聞かれるそうです。

 

よほど大久保利通は鹿児島県民から嫌われているのでしょうねえ。

 

 

 

では大久保利通は西郷隆盛を本当に裏切ったのでしょうか?

 

 

 

実は大久保も西郷も新しい日本国を造るため、島津久光が 「まさかそこまではやるまい」 と思ってた版籍奉還までやってのけたため、結果として旧主である久光を裏切ることになった訳ですが 「あいつらは主君を裏切った逆臣だ!」 と久光から人格まで否定されるように罵り続けられたことでひどく傷つき、太政官の二大巨頭とまで言われた二人においてそれがいつまでも心にトゲのように刺さり、大久保においては冷徹・冷酷・冷血をもって新しい国造りに情熱を注ぐしかなかったし、西郷においては政治の舞台から一切身を引いて国に帰り百姓になったのでありましょう。

 

武士にとって旧主から 「裏切り者」 呼ばわりされるのは生きる気力を失うくらい辛いことらしく、この二人以外にも各地から東京に集って太政官になった多くの重要な構成員が、大なり小なり旧主を裏切ったという後ろめたさを引きずっていたのではないでしょうか。

 

武士とは主君に忠義を尽くすのが当たり前で、武士達のそうした清々しさと潔さから生じた旧主に対する後ろめたさが、ある意味彼ら太政官達の原動力になって、場当たり的だったりその場しのぎの危うい対応だったかも知れないけど、奇跡と言われるほど劇的に明治維新を成功させたのではなかろうか。

 

そう考えると、幼い頃からの親友であった二人が明治6年の政変で袂を分かつことになったけど、成り行きというか情勢の変化によって血気はやる薩摩の若い士族達に担がれた西郷を、政府軍を率いる大久保が国作りのためにどうしても討たなければならなかったのは、致し方なかったことなんでしょうねえ。

 

見方はいろいろあるでしょうが、西郷隆盛は自分の命を賭して武士の時代を終焉させ、その介錯の任を大久保利通が受け持ったのではなかったのかと、自分は勝手にそう思っております。

 

 

 

とにかく大久保利通という人物が居なかったら今の日本の国の形はなかったかも知れないと言えるほど新しい国造りを推し進めた凄い人物でありますが、残念ながら西郷が逝った翌年、皇居に馬車で移動している途中で不平士族達から急襲され暗殺されてしまったが、やり残したことが多々あったはずで至極残念だったでしょうなあ。

 

なお大久保は西郷から送られた手紙をいつも袋に入れて持ち歩いてたらしいが、暗殺された時にも2通の手紙を持っていて血まみれになったその手紙を、同郷で従弟の陸軍大将の大山巌がその後所持していたとのことです。

 

 

 

そろそろ出立の時間になったのでこの辺でやめますが、明日も大久保利通についてもう少し書いてみたいと思います。

 

大久保は岩倉使節団の副使として伊藤博文や木戸孝允らと外遊した時、大久保にとって運命の人となるドイツの 「宰相ビスマルク」 と会うことになったのだが、これがその後の日本の富国強兵路線を決定づけたことになるんだなあ。

 

 

 

今日もお天気が怪しいので休みにしましたが、暇で時間がなんぼでも有るから一生懸命海の上の書斎でお勉強しなくちゃね。(笑)