由緒書~原文まま

下書

                                甲州巨摩郡

                                若神子村  

                                湯沢山  

                                長泉寺

 

             由緒書

、当山之儀者往古真言宗ニ御座候所、

  (とうざんのぎはおうこしんごんしゅうにござそうろうところ)

  武田冠者刑(正)部三郎義清公御病気之砌、当村字湯沢と唱ひ候處ニ

  (たけだかんじゃぎょうぶさぶろうよしきよこうごびょうきのみぎり、とうそんあざゆざわととなひそうろうところに)

  当時守護之熊野権現之社中よ里湧出候温泉へ御入湯御平癒之刻、

  (とうじしゅごのくまのごんげんのやしろなかよりわきいでそうろうおんせんへごにゅうとうごへいゆのとき)

  義清公開基堂舎建立依レ之湯沢山義清院長泉寺と申候、夫よ里武田家

  (よしきよこうかいきどうしゃこんりゅうこれによりゆざわさんぎせいいんちょうせんじともうしそうろう、それよりたけだけ)

  累代御尊崇ニ而数百部之寄付地被(ニ)下置(一)候、

  (るいだいごそんすうにてすうひゃくぶのきふちくだしおかれそうろう)

、当山之儀 (とうざんのぎ)      遊行二祖(ゆぎょうじにそ)

  新教上人開山ニ而時宗ニ改宗仕候、住僧遂(ニ)参内(一)奉(レ)拝、

  (しんきょうしょうにんかいざんにてじしゅうにかいしゅうつかまつりそうろう、じゅうそうさんだいをとげはいしたてまつる)

  龍顔御綸旨奉(ニ)頂戴(一)其後代々之住僧遂(ニ)参内(一)御綸旨

  (りゅうがんごりんじちょうだいたてまつりそのごだいだいのじゅうそうさんだいをとげごりんじ)

  奉(ニ)頂戴(一)候、(ちょうだいたてまつりそうろう)

、寺中致(ニ)安置(一)候観世音行基菩薩御作ニ而、義清公守本尊御家代々

  (じちゅうあんちいたしそうろうかんぜおんぎょうきぼさつおさくにてよしきよこうのまもりほんぞんおいえだいだい)

  尊影不レ残天文年中信州戸石合戦之砌、依(二)御祈願(一)

   (そんえいのこらずてんぶんねんちゅうしんしゅうといしがっせんのみぎり、ごきがんにより)

  御勝利ニ相成晴信公よ里御寄付被(二)下置(一)候、

  (ごしょうりにあいなりはるのぶこうよりごきふくだしおかれそうろう)

、当山之儀者武田累代由緒有(レ)之(二)付、天正十一癸未四月十九日 

  (とうざんのぎはたけだるいだいゆいしょこれあるにつき、天正11、みずのとひつじ4月19日) 

  東照神君様御入国之砌、寺領高五貫文御朱印被(二)下置(一)、其後

  (とうしょうしんくんさまごにゅうこくのみぎり、じりょうたかごかんもんごしゅいんくだしおかれ、そのご)

慶長八卯年三月櫻井安藝守、石原四郎右衛門、小田切大隈守、跡部

  (けいちょう8うどし3月さくらいあきのかみ、いしはらしろうえもん、おだぎりおおすみのかみ、あとべ)

九郎右衛門、右四奉行よ里高七石弐斗、境内千百七十六坪並諸役免除之

  (くろうえもん、みぎよんぶぎょうよりたかななこく2とけいだい1776つぼならびにしょやくめんじょの) 

  御墨付被(二)下置(一)、其後寛永十九壬馬年大猷院様御朱印ニ御改

  (おすみつきくだしおかれ、そのごかんえい19みずのえうまどしだいゆういんさまごしゅいんにおんあらため)

  境内続ニ而奉(二)頂戴(一)夫よ里御代々当辰ニ到迄都合拾壱通四奉行

  (けいだいつづきにてちょうだいたてまつりそれよりおんだいだいとうたつにいたるまでつごう11つう4ぶぎょう)

  之御墨付壱通奉(二)頂戴(一)護持罷申候、

  (のおすみつきいっつうちょうだいたてまつりごじまかりもうしそうろう)   

、東照神君様以来将軍家御取扱之儀ハ七ヵ年目御年頭参府登城扇子奉

  (とうしょうしんくんさまいらいしょうぐんけおとりあつかいのぎはななかねんめごねんとうさんぷとうじょうせんす)

  (二)献上(一)候、式例ニ御座候、

  (けんじょうたてまつりそうろう、しきれいにござそうろう)

、当国同郡西井出村光輪山観音寺と申当山之末寺ニ御座候、檀家宗 

  (とうごくどうぐんにしいでむらこうりんざんかんのんじともうす、とうざんのまつじにござそうろう、だんかしゅう) 

  判之儀ハ当山ニ而、(はんのぎはとうざんにて)

、今上皇帝御宝祚萬々歳並天下泰平五穀成就、

  (きんじょうこうていごほうそばんばんざいならびにてんかたいへいごこくじょうじゅ)

  上皇御歴代将軍家御代々奉(レ)弔、御菩提献(二)供物(一)奉御回向(一)

  (じょうこうおんれきだいしょうぐんけおんだいだいとむらいたてまつり、ごぼだいくもつをささげごえこうたてまつりそうろう)

  右之通有増御由緒奉(二)書上(一)候、以上

  (みぎのとおりあらましごゆいしょかきあげたてまつりそうろう、いじょう)

、御朱印高七石弐斗当山境内続

  (ごしゅいんだかななこくにととういんけいだいつづき)

、境内千七百七十六坪ニ而奉(二)頂戴(一)

   (けいだい1776つぼにてちょうだいたてまつる)

、東照神君様  初代(徳川家康)(1583)   壱通

    御朱印   天正十一年 四月廿日

、大猷院様   第3代(徳川家光)(1642)  壱通

    御朱印   寛永十九年七月十七日

、巌有院様   第4代(徳川家綱)(1665)  壱通

    御朱印   寛文五年七月十一日

、常憲院様   第5代(徳川綱吉)(1685)  壱通

    御朱印   貞享二年六月十一日

、有徳院様   第8代(徳川吉宗)(1718)  壱通 

    御朱印   享保三年七月十一日

、惇信院様   第9代(徳川家重)(1747)  壱通

    御朱印   延享四年八月十一日      

、唆明院様   第10代(徳川家治)(1762) 壱通 

    御朱印   宝暦十二年八月十一

、文恭院様   第11代(徳川家斉)(1788) 壱通

    御朱印   天明八年九月十一日

、慎徳院様   第12代(徳川家慶)(1839) 壱通

    御朱印   天保十年九月十一日

、温恭院様   第13代(徳川家定)(1855) 壱通

    御朱印   安政二年九月十一日

、昭徳院様   第14代(徳川家茂)(1860) 壱通

    御朱印   万延元年九月十一日

、四奉行御墨付(1603)             壱通

           慶長八年三月朔日

   以上

   徳川家よ里被(二)下置(一)候、御朱印・御判物右之通御座候、

   (とくがわけよりくだしおかれそうろう、ごしゅいん・ごはんもつみぎのとおりござそうろう)

 

、本堂              七間   七間

、庫裏(くり)           十間半  九間

、観音堂             四間   五間

、薬師堂             三間   三間

、熊野権現           社

、大蔵地内馬頭堂       当山持

右之通奉(二)書上(一)候所相違無(二)御座(一)候、以上

(みぎのとおりかきあげたてまつりそうろうところそういござなくそうろう、いじょう)

   慶応四辰年 七月        若神子  長泉寺

 

             旦(檀)中惣代     富 右衛門 (とみ  えもん)         

 

              

※上記、文章自体は原文ままです。

編集上縦書きが出来ないので横書きになっておりますが、原文は縦書き古文ですので()内の漢数字は読み順です。(レ)は返し。文中のニ(に)、ヨ(よ)などはそのままお読みください。

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